![打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [Blu-ray] 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/I/51nWTx9LDgL._SL160_.jpg)
打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [Blu-ray]
- 発売日: 2018/04/18
- メディア: Blu-ray
まあ原作である実写版については、既に詳しく書いたのでそちらを読んでほしい。
で、本作は、そのアニメ映画版である。
わたしは観ながら、原作を知らない方にとっては概ね良い作品なのではないかと思った。
あ、オチは別ね。オチはだいぶ不親切というか消化不良だと思った。ネットでも評判悪いなと思っていたが、実際見てその不評は尤もだと思った。
以降ネタバレ
さて、先ほど「原作を知らない方にとっては良い作品」と書いた。しかし原作DVDを数十回は観たわたしからすると、これはやはり「違う」のである。「ぜんぜん違う」と言っても良い。
- 主人公(典道)はヒロイン(なずな)の親の再婚という事情を知っている。
- 典道は「たられば」の世界を繰り返すうちに成長し、正しい結末とは何かを考える。
- 典道はなずなへの恋心を自覚し、二人は両思いになってキスをする。
何の問題もない、良い話じゃないかと思うだろうか?
- 好きな女を叫び合うシーンで「セーラームーン!」と叫ぶシーンがない。
- 原作は小学生設定だが、本作は中学生設定。というか高校生っぽくも見える。
- ラストシーンで、何も知らないが「何か」を察した典道が先生と花火を見る。
些細な話だと思うだろうか?
いや、極めてエッセンシャルな話なのである。少なくともわたしにとっては。
今から書くことはわたしが勝手に思っているだけの話だが、原作が持っていた最も大切なモチーフのひとつは「イノセント」だったのではないかと思う。
原作の典道は小学生で、友だちと遊ぶのが楽しくて、でもいつも大人びて見えるなずなのことも気になっていた。そして浴衣や白いワンピースなどいつも以上に大人っぽく見えるなずなに振り回される。夏休みの間に引っ越していなくなるという事情なんてもちろん知る由もない。ただしいつもと違うなずなの様子だけは何となく察している。子供は馬鹿ではないから。だけどやはり子供だから、他人の違いを察することはできても、自分の恋心を理解することなんてできず、典道に恋心という明確な自覚などない。いや、そもそも恋心と言えるかどうか。中高生の惚れた腫れたとは全く違う、もっと淡いものだ。ましてや付き合ったりキスをしたりするなんて。
一方、大人に見えるなずなも結局は小学生なのだ。精一杯背伸びをしても、現実に抗うチカラなど無い。いや、そもそも駆け落ちなんて言ってみたところで、そんなことができるなんて最初から思っていない。自分が今やっていることなど戯れに過ぎない、子供である自分が駄々をこねているだけだということに、当然なずなは気づいている。それでも、精一杯背伸びをして。
日が暮れて、二人は近所に戻ってくる。なずなは背伸びした自分を解放して、ただの小学生の少年と少女に戻る。夜のプールで少年と少女が水遊びに興じる中で、ほとんど奇跡のような美しさに典道は立ち会う。
しかしそのことの意味に典道は気づかない。典道は子供だから。
わかるだろうか。
この作品はジュヴナイルであってはならないのだ。典道は成長などしていない。成長するのはもっと後なのだ。エンドロールの後、フツーに夏休みを過ごし、そして二学期が始まって、典道はなずなが引っ越していたことを知ってしまうだろう。そしてその時に初めて、ほんのりと感じていた違和感の正体を知る。なずなの「今度会えるの、二学期だね。楽しみだね」という言葉の本当の意味も。どうにかできなかったのかという思いと、どうにもできなかっただろうという思いと、そうか自分はなずなのことが好きだったんだという思いと、そして自分は子供だったのだという思いを典道は明確に意識することになるだろう。そして典道は苦い思いとともに劇的に成長するのである。
強烈に切ない、このイノセントが、このアニメ映画版にはない。
アニメ映画版のクライマックスでは、「次会えるの、どんな世界かな。楽しみだね」である。自分たちが今この瞬間「たられば」の世界を生きていることも、そこで両思いになったことも、全て知った上で、またすぐ会うことが前提である。こうなると引っ越しによる別れに大した意味などない。要するに「ただのジュヴナイル」いやもっと言うと「中高生の単なる恋愛SF映画」になってしまっているのだ。
最後に一応フォローめいたことを書いておくと、原作は傑作だ。そしてアニメ映画版は「そこそこ良い、中高生の単なる恋愛SF映画」である。つまり原作を知らなければ、そこまで悪くはないように思う。