西原理恵子『いきのびる魔法 いじめられている君へ』

日本人は自殺で年間3万人も死んでいる。どんな紛争地域でも恒常的に年間3万人も死んでいる訳ではなく、異常で危機的な状況である。いじめられている子供は、ずるくて良いから、逃げる。学校を休んで、16歳まで逃げる。16歳になればフリースクールや大検といった進路へのアプローチが取れる。働くこともできる(働くことで得られる学びの方が大きい)。まずは16歳になるまで逃げなさい……といった趣旨の絵本。
いじめや学校教育の話を聞くと、俺自身、色々と混乱してしまうのを抑えられない。学校では、単なる国語や算数・数学といった学科教育だけでなく、集団での協調や、我慢すること、誰かを思いやりマナーに沿った公道をすること、良きライバルと切磋琢磨すること等を学ぶところでもある……と言われる。こうしたことを身につけていないと社会で苦労するから。しかし、いじめられたり、意に添わない級友と地獄のように退屈な日々を過ごしたりしてまで身につけるべき事柄か……と問われると、混乱してしまうのである。なぜか。これらは全て社会でも身につけられる事柄だからである。じゃあ社会で身に付けても良いんじゃないの? という思いを抱いてしまうのである。
俺が学校教育に対してこのような混乱した考えを抱くようになったのは、村上龍の本を10年くらい前に読んだからである。

JMM〈VOL.9〉―少年犯罪と心理経済学―教育問題の新しい視点(2)JMM VOL.9 少年犯罪と心理経済学――教育問題の新しい視点2

これは『JMM VOL.8 教育における経済合理性――教育問題の新しい視点』の続編であり、心理経済学という学問を援用することで、少年の心と教育と合理性の関係性を再び捉え直そうとしている意欲作だ。詳しい感想は以前書いたので省略するとして、村上龍の取材後記を引用したい。なお、(中略)と、カッコ内の言葉は、俺が付け足したものである。

それ(村上龍が取材した3つのフリースクールに共通していること)はフリースクール内に「競争」というものがないことです。またどのフリースクールも家族的で、少人数のシェルターのような雰囲気もありました。わたしは最初、以下のような違和感を持ちました。
1:子どもは、家族的ではない大集団の中での民主的なルール・規律を学ぶべきではないのか。
2:子どもは、競争をモチベーションにするという訓練をどこかでやるべきではないのか。
わたしが理解できていなかったのは、フリースクールを訪れる子どもたちの中には生命の危機に瀕しているようなケースが多いということです。あのまま学校に通い続けていたら自殺していたかも知れない、という子どもが大勢いました。(中略)
わたしは、子どもは集団における競争を体験する必要があると思っていました。社会は大小さまざまな集団で構成されていて、多かれ少なかれ競争があるはずだと思っているからです。(中略)
しかし(中略)たとえば一千人という規模の集団における「自己の確認」と「競争心」がこの先本当に必要になるのかどうか、考え方を変えなくてはいけないのではないかと思うようになりました。今後も社会から競争がなくなることはないでしょう。しかし、競争は学校で学ぶものでしょうか。
もちろん子どもに最低限の社会的ルールを守ることを教えることは必須でしょう。しかし最低限の社会的ルールを守ることができない子どもたちは、どちらかと言えば既成の学校の中で育てられているような気もします。

西原理恵子の絵本の主張である「いじめからは、逃げて良い」ということには賛同する。しかし例えば小学生でいじめに遭ってしまったら、16歳まで不登校で自宅に引きこもるのは、少し長過ぎるのではないか。単なる不登校→自宅への引きこもり以外の「いきのびる魔法」が語られるべきだと俺は思う。村上龍が取材したフリースクールのような選択肢もそのひとつであろう。