インキュベ日記

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佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫)

はじめに

ここまで来たかという思いである。

元々、佐藤優という書き手には興味を持っていたものの、これまでは散発的に数冊の本を読んできただけであった。多作であり、何をどう読んで良いか迷っていたのもある。

そんな中、今年の4月から5月にかけて『十五の夏』という旅文学の傑作とも言うべき書と出会う。1975年という共産主義体制が色濃く残る世界において、わずか15歳、高校1年生の佐藤優が単身で1ヶ月以上も東欧からソ連という共産主義国を訪れるという旅行記である。

わずか15歳の佐藤優が英語で1ヶ月以上も生き延びているという生命力や活動力への嫉妬、たった独りで共産主義国を旅するという衝撃、人々との貴重な触れ合いから得た佐藤優の成長への憧れ、佐藤優が『十五の夏』を書きながら感じたであろう過去の友情への甘酸っぱく切ない思いへの共感、なぜ自分は海外を避けて――というよりも刺激を避けて安定に甘んじてきたのだという悔恨……読みながら様々な感情がわたしの全身を包んだ。

そして『十五の夏』の上下巻を読み終えて、思った。

佐藤優の本をもっと読もう。計画的に読もう。

わたしはもう「こういう旅」をすることはできまい。ドロップアウトするほど仕事に対して無責任ではないし、責任を放棄できる立場・年齢となって長旅に出る頃には思春期のような感受性はさすがに無いだろう。旅先の人々も、15歳の少年と良い年こいたオッサンでは対応も違ってくる。しかし悲観することはない。戦い方はひとつではない。今だからこそ得られる種類の経験や感動は必ずある。そして佐藤優の知見は、たとえ一部ではあっても書物から得ることができるのだ。

わたしは佐藤優の著作リストを眺めた結果、まずは『十五の夏』に近い自伝エッセイ的な本を読んでみようと思った。彼は高校1年生のロシア旅行だけでなく、中学(学習塾)でも、高校(浦高)でも、大学や大学院(同志社大学神学部)でも、そして外務省勤務でも、それぞれ極めて貴重な得難い経験をしていると思ったからである。そして次に、佐藤優の人生と切っても切り離せない『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読む。『国家の罠』は佐藤優のデビュー作でもあり、本来真っ先に読んで然るべき最重要書だが、あえて佐藤優の人生をしっかりと理解してから満を持して『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読む。

そして本日、半年前に考えた計画どおり、本書を読み終えたのである。

本題

果たして、その試みは正解であった。本書を読みながら、佐藤優の思いが、ビシビシ伝わってきた。

Amazonのレビューか何かで誰かも語っていたような気がするが、佐藤優の面白さと凄さは、「マルクス主義(社青同)」「キリスト教(フロマートカ等に代表されるプロテスタント神学と自身の信仰経験)」「功利主義(外務省的インテリジェンス)」という一見お互いに相容れない、しかし近代ヨーロッパの根幹にある思想をまるっと学んできた数少ない日本人であり、それでいていわゆる「西洋かぶれ」ではない独自の境地に達している点である。それは日本や日本人への愛国心と言って良いだろうが、そうした佐藤優の根底が、国策捜査によって無残にも破壊される。

佐藤優の怒りは相当なものだろう……と思ったが、本を読むと実はそういうわけでもなかった。彼は「やれること」と「やりたいこと」は違うと考えている。外務省での生活は確かに面白く刺激的だったが、彼が本当にやりたいことではなかった。彼は哲学や神学の勉強をし、ものを考えたり書いたり、あるいは誰かに教えたり、といったことの方が性に合っているようだ。しかし、彼は国策捜査でかけられた罪状に対して否認を続ける。それは外交官としての自分を守りたかったわけではない。佐藤優は、筋を通すため、そして自分を信頼してくれた方や自分が信頼している方のため、500日以上に渡って勾留され、否認を続ける。

国策捜査というのは本来、絡め取られたらもう逃れることはできない。何があっても有罪になるのである。権力機関はそれだけの組織力を持っている。国は「鈴木宗男」に辿り着くため、何としても佐藤優を有罪にする。かつ、鈴木宗男に繋がるようにする。その流れは変えられないわけである。そして検察官はその流れを正しい(もしくは巨悪を挙げるための小事)だと思っている。しかし検察は、その流れに巻き込まれた方は可哀想だとも思っており、できるだけ小さい罪で、かつ執行猶予が付くような取り調べをするのだそうだ。供述調書などというものは本当に怖いとわたしは思った。一方、佐藤優はわたしとは違い、むしろ検察官の職業倫理に対して敬意の念を抱いてしまうのである。検察官は敵である。しかし方向は違えど、国のために粉骨砕身で働き、職業倫理を通す検察官に対して、不思議な友情を感じてしまう。検察官も検察官で、佐藤優のことを認め、「普通」とはかなり違ったアプローチで取り調べを行うし、相手の裏側のことも色々と話すようになる。もちろん、こうした方が佐藤優という人間と良い関係を築けるだろうという、この検察官一流の取り調べ戦術でもある。しかし頑固に職業倫理を通す佐藤優に対して、この検察官も普通とは違う感情を抱いていたようだ。

そう、本書は、検察官と佐藤優の奇妙な友情の物語なのだ。

ロマンではないか。いや、浪漫と書くべきか。

敵であるが奇妙な友情も感じる検察官との間で、佐藤優は実に様々なやり取りを行う。わたしが特に唸らされたのは、検察側の非常に巧妙かつ狡猾な法廷戦術である。例えば、供述調書について、被告人がペラペラと自分の主張を述べて、それをふんふんと聞いて供述調書に仕立て上げているときは、実は要注意なのだそうだ。供述というのは、必ず裏を取る。一人だけの供述をもって判断することはしない(というより、できない)。そしてこのような国策捜査の場合、持っていきたいストーリーというのが必ずある。そのストーリーに、いわば供述を嵌め込んで行くわけだが、そのうちの誰かがそのストーリーと全く違う流れが事実だとして頑として曲げない場合、A氏の供述は諦める。しかしB氏・C氏・D氏が陥落して検察の思惑通りの供述に従ったとする。そうすると、仮にA氏の言うことが事実であっても、裁判でA氏とB氏・C氏・D氏の言うことが大きく食い違い、しかもB氏・C氏・D氏の整合が取れていれば、普通に考えて裁判官はA氏よりもB氏・C氏・D氏の供述を信頼する。そしてA氏の心象は悪くなり、他の面でも大きなマイナスを被るであろう。検察に非協力的な態度を取ると、このような形で手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

よく、取り調べで容疑者が「落ちた」「陥落した」という言い方をするが、こうした政治犯罪の場合、単に犯行を認めるといった話ではなく、検察のストーリーに沿った供述をしてくれるかどうかが重要になる。この供述に協力的な場合、上で述べたとおり国策捜査に巻き込まれる人は可哀想だという思いも検察は持っているため、様々な形で供述調書に手心を加え、小さな罪になるよう、また執行猶予が付くよう、そして早く人生をリスタートできるよう、取り計らってくれる。また、この「取り計らうよ」ということを容疑者に言うことで、毎日の取り調べで心身ともに疲弊した容疑者は揺さぶられるのである。無罪を主張して何年間も勾留され、結局国策捜査の流れに負けて有罪になるよりは、最初から(たとえやっていなくとも)罪を認めてさっさと判決を出してもらった方が良いのではないかと。

佐藤優の場合、陥落はしていないが、どうせ有罪にさせられてしまうことは覚悟している。だから自分のインテリジェンス・オフィサーとしての評判や、自身を信頼して情報提供をしてくれた方などは徹底して守るが、細かな事実関係では仮にやっていなくとも、あえて罪を認めることで、検察官に貸しを作るというようなことをしたようである。

正直ここまでの戦いは、一般人には無理だろうね。

しかしここで徹底的に戦った結果、佐藤優は作家・評論家として第二の人生を歩むことができている。

戦うべき時には徹底的に戦うことが重要だ。そして「守るべきもの」や「攻め落とすべきもの」を明確化することが重要だと思った。