「人生の教科書」と(ちょっと大袈裟に)銘打たれた、『よのなか』に続くシリーズ。本書では「法律」の問題を中心に考えていったそうで、前著『よのなか』が、“14歳からのやさしい経済学・政治学・社会学”を目指したのに対して、今回の『ルール』では、“14歳からのやさしい法律学・心理学・社会学”といった分野をカバーしているらしい。
俺は今、著者の1人の藤原和博(藤原和博については近く詳述するつもりだ)に非常に注目しているが、藤原和博の書いた序章「性転換をめぐる、男と女としあわせのルール」は、多くの論点を孕んでいて特に面白い文章だった。ここでは(実際に起こったことをモデルにした)なだいなだの小説を引用しながら「性」と「しあわせ」について読者に考えさせる構成になっている。少し引用してみよう。
「あなたは、現在、しあわせですか」
「ええ、しあわせです」「以前は、不幸でしたか」
「ええ」「それはいつまでですか」
「あの時までです」
「すると、あの時まで、あなたは不幸で、あの時から、しあわせになったと言うのですね」ある裁判の法廷での会話である。
“しあわせ”について聞いているのは弁護人であり、それに対して答えているのは以前は男性であったのに、性転換手術を受けて“秋元かおる”となったニューハーフである。
だから、“あの時”と言っているのは、性転換手術をして、こころだけでなく、体もすっかり女性らしくなったときのことをいっている。
会話部分は『クヮルテット 第一楽章 性転換手術』という小説の一コマであり、地の部分が藤原和博の解説である。これは、まだ日本で性転換手術が認められていない頃が舞台の話である。かおるの手術をした医師が告訴されたのだが、性転換手術は有罪なのだと検事は裁判官にアピールしたいから、「性転換手術できてしあわせだ」と語ったかおるの証言をひっくり返そうと、「ホントのしあわせ」について、検事がかおるに執拗に問いかける場面――という設定である。全て引用すると長すぎるので、なだいなだの小説の会話部分だけ引き続き引用してみる。
「正式に結婚できないのは“家庭”と言えないんじゃあないですか」
「それでは、届けだけ出せば、それだけで家庭でしょうか?」「子どもができないのは“しあわせ”といえるのですか」
「子どもは、家庭になければならないものでしょうか?」「親からもらった大事な体をそんなふうにして、親が悲しむでしょう」
「父は戦死し、母は私が生まれると私を置いて他の男と逃げてしまいました。私は叔母に育てられたんです」
「親からもらった、という言葉を、具体的にとられても困ります。神様が作った……」
「神を信じていません」
「神を信じていません」の一文は感動的だ。検事の抱くステレオタイプな「ホントのしあわせ」は、かおるには通用しない。こうして、かおるではなくむしろ検事が追いつめられていき、テーマは本書のタイトルでもある「ルール」の問題へ足を踏み入れる。
「天が作ったものを、人間が勝手に作り変えることは、人間の思いあがりではないですか」
「でも、人間は、天の作ってきたものを作り変えようとして来たのではないですか?」
「そう、たしかに、人間は自然を作り変えている。しかし、どこまでも、というわけではない。超えられない一線というものがある。許されないものが、あるのです」
「その一線は、誰がきめるのですか?」
「自然にきまっています」
「きめているのは、人間です。人間しかいません」
なだいなだの小説を引用することで、藤原和博は読者に、暗に問いかける。果たして「ルール」とは何なのか? そして、その問いかけを読者は抱えて、第1章を読み始めるのである。「神を信じていません」と「きめているのは、人間です。人間しかいません」のくだりは、激しく心を揺さぶられる。活字史上、稀に見る優れた導入部分ではないだろうか? もちろん導入部分(序章)以外も非常に面白いので、『よのなか』と併せて必読である。