塩倉裕『引きこもる若者たち』

俺が引きこもりに近い状態を経験してきたからかもしれないし、社会学を専攻してきたからなのかもしれないが、とにかく俺は「引きこもり」に対して特別な関心がある。時に共感的、時に同情的な、基本的には温かい視線を送っているつもりだ。少なくとも、俺は引きこもりを若者の堕落だとか弱さだとか責任の欠如だとかモラトリアムだとか、そういった枠組みで捉えようとは思っていない。引きこもりの責任を個人のみに押しつけてしまうのは間違いだ。引きこもりは個人的な問題であると同時に社会的な問題だと思うからだ。

本書の「まえがき」には、俺が日々なにげなく生活してきた中で(あるいは社会学を学ぶ中で?)抱いた実感と同じものが記されている。引用しよう。

コミュニケーションが「空気のように当たり前に存在した」時代は終わったのかもしれない。いま私の中にあるのは、コミュニケーションが「課題」として人々の前に姿を現し始めた、そんな時代への予感である。

コミュニケーションが「課題」として人々の前に姿を現し始める――それはもう夢物語ではない。引きこもり状態の人に限らず、コミュニケーションはもはや現代人にとって立派な「課題」である。教室内でうまく立ち回り一日を無事に過ごすこと、家庭で、職場で、電車で、道端で……引きこもりという現象がピックアップされる前から、(特に一部の人々にとって)コミュニケーションは修験者の苦行の如く不可避に課せられた「課題」なのだ。大部分の人々はコミュニケーションを「課題」として意識せざるを得ない場面に多かれ少なかれ立ち会ったことがあるのではないだろうか?