永井俊哉『縦横無尽の知的冒険』

メールマガジンが元になっているエッセイ集だが、「〜専門の垣根を越えて〜」という副題がついているように、様々な分野を横断的に論じている。そのため全てを興味深く読めたわけではないが、大半は非常に面白いものだった。また、それぞれのエッセイが有機的に関連し合っていて、前から順に読んでいくと、前のエッセイで解説された知識や概念が後半のエッセイで頻繁に引用される。

本書で貫かれる著者のスタンスは、「できるからする」という能力史観的な説明だけでなく、「しなければならないからする」という必要史観的な説明も同時になされなければならない、というものだ。必要に迫られて(嫌々)行ったことが後世で結果的に進歩と捉えられることも多いのである。

例えば、欧米ではレディーファーストが徹底されると言われるが、それは欧米人の男が「女性を尊重することができる」ための行動なのだろうか? 実は、レディーファーストは「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という男尊女卑の裏返し的な表れである――と筆者は説くのである。同様に、日本の「メシ!フロ!ネル!」な亭主関白は一見すると偉そうだが、実は、妻から見れば夫は何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。男が偉いのではない。ただ単に男に生活能力がないから、妻が必要に迫られて夫を守ってやっていたのである。

著者が続けて述べる「伝統的には、日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである」という指摘は、なかなか本質的な問題を孕んでいると言えるだろう。上記の議論が所収されている「日本人はなぜ幼児的なのか」や、「フェミニズムは本当に女を解放するのか」など、フェミニズムやジェンダーを含めた広義の精神史についてのエッセイ群は特に面白いので必読である。

ちなみに以下は本書の内容ではなく個人的な感慨だが、こうした必要史観的な考え方を考慮すると、日本でフェミニズムがイマイチ盛り上がらず、欧米で豪快に展開されていったのも納得できる。何も欧米の女性が進歩的で権利に敏感だったのではなく、男が密かに抱える男尊女卑の傲慢さに欧米の女は耐えられなくなったのだ。逆に日本の女は「大きな赤ちゃん」のために亭主関白を演じてやっていたから、フェミニズムの機運が盛り上がるはずもなかった。しかし現在はもちろん亭主関白など機能していないから、「母親の代わりをすることで得た精神的な上位ではなく、今度は社会的な上位を手に入れたい!」ってことで場違いなフェミニズムが跋扈するのである。「男のくせに!」という田嶋陽子の日常的な発言は象徴的だ。言うまでもなく、奴は女性の解放ではなく女性上位の社会を目指している。

他には、ヒトの特性を探る「ヒトはいかにしてヒトとなったのか」なども秀逸であり、必読だろう。例えば、生物としてのヒトと他の種族から区別する種差とは何であるかという問いは頻繁に見られるものだが、「高い知能」は四〜五万年前までは他の類人猿と大差がなかったし、「音声言語の使用」「道具の製作・使用」などは他の動物にも見られるものである。ヒトの種差は、実はもっと地味な「直立二足歩行する哺乳類」「体毛のない霊長類」などであり、いかにしてこうした属性を獲得したのかを解明することから、ヒトはいかにして他の類人猿から分かれてヒトとなったのか説明されなければならない――と著者は述べている。

ここで著者は、モーガンの唱えた「アクア説」の細部に多少の修正を加えることで説明しようとしている。アクア説は簡単に言うと「ヒトが、かつて半水中生活を送っていたために、チンパンジーとは別の進化の道を辿ることになったと主張する説」である。詳しくネタバレするのはもったいないので、ぜひ自分で読んでみて、強烈な知的興奮を実感してみてほしい。当然ここでも必要史観的な考えが織り込まれている。直立二足歩行は、必要に迫られたのだ。

産業革命について、心を持つロボットについて、量子力学とパラレルワールドについて、ナチとフォードの暗い蜜月についてなどなど、他にも面白い話題は満載だ。メールマガジンを修正したものなので多少の荒さや質のバラツキは否めないが、それを差し引いても、なお必読と言って良い。