スコット・フィッツジェラルド『愛蔵版 グレート・ギャツビー』

愛蔵版 グレート・ギャツビー

愛蔵版 グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー』は新書版と愛蔵版が発売されており、前回は新書版で、今回は愛蔵版、と連続で『グレート・ギャツビー』を読んだ。読み終えてすぐ同じ小説を頭から読み返す経験は初めてだったが、なかなか良いものである。特に序盤の印象が変わってくる。それに、やはり大判の方が読みやすい。
ところで新書版と愛蔵版では、装丁や版型・値段が違うのは当然として、愛蔵版には<『グレート・ギャツビー』に描かれたニューヨーク>という別冊の読み物がついているが、それを除けば新書版も愛蔵版も内容は同じである。俺は装丁には大して興味がなく、また保存用に同じ本を2冊も買うような人間でもないので、新書版を買うつもりだった。しかし、ある出来事があって、実は新書版と愛蔵版を両方とも持っている。
俺が『グレート・ギャツビー』を買おうとしたのは渋谷の某大型書店だった。そのとき(発売後すぐの頃だったように思う)はたまたま「村上春樹の翻訳フェア」みたいな棚があった。俺はそこで双方を見比べて「まあ新書版で良いか……」とレジに並んだ瞬間、「俺の最も好きな小説家である村上春樹が最も敬愛している小説なのだから、愛蔵版にしよう!」といった感情がほとばしり出た。何かの本か漫画で読んだが、どちらかを選んだ瞬間、もう片方が欲しかったことに気づくというのは、確かにある。俺はフェアの棚に戻って愛蔵版を手に取り、そして「やっぱり愛蔵版を買うくらいだから綺麗なのにしよう」と(いつもはほとんど気にしないのだが)上から二番目か三番目の本を手に取った。ところが、そのとき俺は恐ろしいことに気がついた。愛蔵版にだけついている小冊子<『グレート・ギャツビー』に描かれたニューヨーク>が、その本から抜き取られているのである!
俺は一瞬とても哀しくなって、その後、猛烈な怒りを覚えた。わざわざ新書版の3倍以上の金を払って愛蔵版を買う人というのは、スコット・フィッツジェラルドや『グレート・ギャツビー』が大好きな人か、その装丁や小冊子が気に入ってしまった人であろう。あるいは俺のように、村上春樹の長年の思いに敬意を払いたいと思っている人かもしれない。いずれにせよ、愛蔵版を買う人というのは、その本に特別な思いのある人である。家に帰って小冊子がなかったら、その人たちはどれだけ哀しいだろう。万引き犯は小冊子だけを盗み、新書版を買ったのかもしれない。あるいは嫌がらせとして小冊子を盗んだのかもしれない。しかし、とにかく俺はムカついた。万引き犯よ、オメーみたいな奴は愛蔵版どころか小冊子を読む資格だって無い! というか、せめて愛蔵版を丸々盗め! とか、そういう怒りである。
そして俺の怒りの矛先は、愛蔵版の小冊子だけ盗まれるという情けない本屋、渋谷の某大型書店にも向けられた。そもそもここは、検索システムで検索しても、本の在庫があるのか無いのかよくわからない。それに店員に在庫を聞いても時間が随分かかるし、結局どの棚にあるのか見つけられず、売場に探しに行って「品切れでした」と報告してきたことが何度もあった。でも売り場に探しに行っているということは、コンピュータ上は「品切れ」ではなく「在庫あり」の状態のはずである。本の場所を把握できていないか、それとも盗まれたのか、いずれにせよオペレーションのレベルが低い。そんなことだから愛蔵版の小冊子だけ盗まれるのだ!
だから俺は、今日ここで買うつもりだった専門書数冊と『グレート・ギャツビー』の愛蔵版の合計2万円近くの本を、ここではなく池袋のジュンク堂で買ってやることにした! どうだ結構な機会損失だろう! そうだ、池袋のジュンク堂では新書版の『グレート・ギャツビー』と漫画も買ってやろう! これで2万円を超える機会損失だ! どうだ参ったか渋谷の某大型書店!
……という感じで、俺は愛蔵版と新書版の両方を持っているのである。
訳わかりませんか、そうですか、そうですよね。俺もそう思います。でも一方で、愛蔵版というのは「それくらい極端なものだ」とも思うのである。特別な思いやこだわりのない者が、誰が好き好んで3倍以上する愛蔵版を買ったりするものか。もしそういう奴がいたら、ソイツは単なる成り金である。
ちなみに小冊子を抜き取られていた愛蔵版は、別の場所に移動させて、ちょっと中身が飛び出る形にして置くことにした。こうすれば、店員が本来の棚に戻す際、小冊子が抜き取られていることに気づくだろう――という発想である。本当はもっと良いやり方があったかもしれないし、そもそも最初から普通に店員を呼んで指摘すれば良かったのだが、何だかもう指摘する際に怒鳴りつけそうなほどムカついていたので、やめといた。まだ買ってもいない奴が「小冊子が抜き取られている」と怒り狂ったら、単なるクレーマーだからなあ。