石原千秋『謎とき 村上春樹』

謎とき村上春樹 (光文社新書)

謎とき村上春樹 (光文社新書)

本書の内容は、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』という初期の作品をテクスト論の立場から読み解くというものだ。著者は夏目漱石の研究者にして、息子の受験を契機に中学入試から大学入試までの「国語の入試問題」の評論を行った人物。そうしたオリジナリティの高い評論領域を創り出した上、内容も面白かったので、個人的には相当注目している書き手である。したがって石原千秋が(俺の好きな)村上春樹を論じた本書は、個人的な期待もかなり高かったことになるが、読み始めた当初はかなりの違和感を感じながらずっと読んできた。
いつもながら俺なりの乱暴な理解で整理すれば、テクスト論とは「小説家の背景・狙い・発言や時代背景を意図的に無視して、小説の文章そのものと徹底的に対峙し、あくまでも小説の内部から読み取れるものを読み解く」というスタンスである。石原千秋はテクスト論の立場から文学研究を行っており、本書も例外ではない。本書での試みとは、ホモソーシャルホモセクシャルではない!)というキーワードで、村上春樹が最も言いたいこと(しかし隠されていること)をテクストから暴いていくということだった。
しかし俺には、何だか小さな謎をチマチマ見つけ出して解決しては、また別の細切れの小さな謎に飛び移っているように思えたのだ。もちろん別に小さな謎でも良いのだが、それって本当にこの本にとって大事なことか? 村上春樹が最も言いたい(しかし隠されている)ことをテクストから暴いているのではなく、石原千秋が言いたいことを村上春樹の評論という形を取って村上春樹の亡霊に言わせているのではないか? とずっとモヤモヤしながら読むことになった。しかも俺は文学に明るいわけではない上、ホモソーシャルというキーワードで読み解くという試みが正直ピンと来ていなかったため、その不信感をさらに加速させることになった。
で、『ノルウェイの森』である。世間では一般に『ノルウェイの森』は恋愛小説だと言われているが、そのこと自体、マーケティング上のキャッチコピー以上の意味合いはないと俺は思っていた。『ノルウェイの森』に書かれていることが「恋愛」だとは思えなかったからだ。しかし本書は『ノルウェイの森』は恋愛小説だと言う。やはり納得が行かず、もやもや読み進めていると唐突にジャック・デリダが出てくる。デリダ??? 石原千秋ジャック・デリダの「誤配」という概念を使って本書のフレームを読み解こうとするのである。
石原千秋いわく、直子とキズキは両思いであり、直子は本来キズキと結ばれるはずだった。しかしキズキは自殺し、直子は「僕(ワタナベトオル)」に「誤配」されてしまう。そこで「僕」は直子を正しい送り先であるキズキに送り届けなければならない。それが「僕」の仕事なのである。しかしキズキは既に死んでしまっているため、直子の正しい送り先とは「死の世界」である。つまり『ノルウェイの森』とは「僕」が直子を自殺させる(殺す)物語なのだ――と。
ここで俺は本書を一旦投げ出した。俺の本書に対する不信感が最高潮に達して、読むのを諦めたのである。そもそも村上春樹ジャック・デリダを意識しながら『ノルウェイの森』を書いたはずがないだろう! それに「僕」が直子を自殺させたわけではないし、百歩譲ってそれを認めたとして、それならば、やはり『ノルウェイの森』は恋愛小説とは言えないではないか。「僕」が直子を殺す物語なら、いったい誰と誰が恋愛しているのだ。まさか永沢とハツミさんか。「僕」とレイコさん? どちらもありえない。矛盾しているだろう……そう思ったのである。
しかし何日か経つうちに、どうも本書の主張に抗いがたい説得性を感じるようになってきて、読むのを再開した。石原千秋はさらに言う。「僕」と直子の時間は誤配された時間であり、そして2人は誤配された関係である。その悲しく切ない時間を過ごすこと、これは恋以外の何者でもない。そして恋の時間は終わる。「僕」は成熟し、結果として直子の生死に関わりなく、直子ではなく緑を選び取る。そして直子も成熟し、自ら死を選び取る。決して「僕」は殺人を犯したわけではない。しかし「僕」の仕事は誤配された直子を正しい送り先に届けることであり、やはり「僕」と直子の物語とは、「僕」が直子を殺す物語なのだ――と。
深く、そして切ない読み方である。未だに心から納得しているわけではないが、こういった特殊な読み方が文学評論なのかもしれない、と思ったところで、前に読んだ『大学受験のための小説講義』に書いてあった文章を思い出した。本書の内容と直接的な関係があるわけではないが、引用したい。

小説の読者は、大袈裟に言えば、あらゆるところに <なぜか?> という問いを仕掛けていく。すぐ答えられる問いもあるし、なかなか答えられない問いもあるし、まったく答えようのない問いもある。それにもかかわらず、 <なぜか?> <なぜか?> と問うことを止められない読者、それが小説の読者だ。(略)
すぐれた小説の読者は(略)「なかなか答えられない問い」をテクストに巧妙に仕掛けていくものだ。もちろん、「なかなか答えられない問い」は「まったく答えられない問い」ではない。考えようによっては答えることの出来る問いなのである。そして、それに答えることによってテクストはより深く読み込まれる。そういうレベルにある問いだ。このことは、序章で述べた <ほどよい省略が行われ、ほどよい謎が仕掛けられている小説がすぐれた小説だ> という趣旨と対応している。ここでは、「ほどよい <なぜか?> という問いかけが出来る読者がすぐれた読者だ」と言っておこう。
ただし、研究者は少し事情が違っている。「ほどよい問い」で満足していたのでは、一般の読者と同じレベルの読み込みしかできないからだ。研究者にとっては、「まったく答えようのない問い」に出来るだけ近づいた「なかなか答えられない問い」が、最も優れた問いだと言えるだろうか。それはほとんど「誤読」に近いが、「誤読」に少しでも触れる冒険を経験しないような読みは、研究者にとっては読みの名に値しない。研究者はたとえてみればテストパイロットのようなもので、テクストの可能性を限界まで引き出すのが仕事の一つだからだ。それがトリッキーだと感じるようでは、研究者の資格はない。

ノルウェイの森』を「ワタナベトオルが直子を殺す物語」とフレーミングするなどというのは確かに誤読スレスレの読み方だと思うが、こうすることで俺の知らなかった『ノルウェイの森』の新しい深さを知ることができた。今まで文学評論などほとんど読んだことはなかったが、こうして読んでみると、意外に面白い、刺激的なジャンルなのかもしれない。
ところで本書では初期長編しか読み解いていないが、他の長編や、俺の好きな短編(例えば「午後の最後の芝生」や「品川猿」はどうだろうか?)を読み解いた本も出してもらいたい。