内田樹『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

ブログで有名な方。著書の大半はブログの切り貼りらしいのだが、俺はそのブログを読んでいないし、「はじめに」が面白かったので、まあ良いかなと購入してみることに。

 最初の論件に入る前に、さらに二三お断りしておかなければいけないことがあります。
 第一に、本書は体系的でないのみならず、「ビッグ・ピクチャー」(「大風呂敷」とも言います)、つまりたいへん大雑把な話です。卑弥呼の時代から現代まで、仏教からマンガまでを「辺境」というただ一つのスキームで論じようというのですから、大雑把になることはやむを得ません。(中略)本書が行うのは「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせることですが、この作業はまったく相互に関連のなさそうな文化的事例を列挙し、そこに繰り返し反復してあらわれる「パターン」を析出することを通じて行われます。ですから、相互に関連のない事例をランダムに列挙している人間をつかまえて「相互に関連のない事例をランダムに列挙している」と文句を言われても困る。そういうことをやろうと思ってやっているわけですから。(中略)
 もう一つ予想されるご批判は、「これは……について論じていない。……のような重要な事項に言及していないものにはこの論件について語る資格はない」という形式のものです。学会発表ではよく見かけたものです。この批判はある意味「究極のウェポン」です。というのは、どのような博覧強記の知性を以てしても(私がそうだと言っているのではありません)、扱っている主題に関連するすべての情報を網羅することはできないからです。もし「言及してもよかったはずだが言及されていないこと」を一つでも見つければ、論そのものの信頼性は損なわれるということをルール化すれば、誰もが「要するにこの世界には程度の差はあれバカしかいない」という結論に導かれます。この結論もたしかに一面の真実を衝いてはいるのですが、それは私たちの知的向上心を損なうだけですので、この種の批判についても静かにスルーさせていただくことにします。

特に二つ目、これは(俺も含めた誰しもが多かれ少なかれ時々やってしまうのだが)本当に無駄な批判だと思う。正直なところを言うと、この部分を本屋で立ち読みしたとき、ここを引用したいがために、この本を買い、読んだと言っても良い。
で、肝心の本論だが、丸山眞男梅棹忠夫などが書いた過去の秀逸な日本論・日本人論・日本文化論を引き合いに出しながら日本人の辺境性を明らかにする第一章「日本人は辺境人である」は面白かった。
文明の生態史観 (中公文庫)  日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)  〔新装版〕 現代政治の思想と行動
菊と刀 (講談社学術文庫)  菊と刀 (光文社古典新訳文庫)  「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 ご存知のように、「日本文化論」は大量に書かれています。世界的に見ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。「こんなに日本文化論が好きなのは日本人だけである」とよく言われます。それは本当です。その理由は実は簡単なんです。私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて、次の日本文化論に飛びついてしまうからです。日本文化論が積層して、そのクオリティがしだいに高まってゆくということが起こらない。(中略)
 私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。丸山眞男はこんなふうに書いています。
「日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である。けれども、それが日本に入って来ると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な『修正』が行われる。さきほどの言葉をつかえば併呑型ではないわけです。そこで、完結的イデオロギーとして『日本的なもの』をとり出そうとすると必ず失敗するけれども、外来思想の『修正』のパターンを見たらどうか。そうすると、その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。そんなに『高級』な思想のレヴェルではなくて、一般的な精神態度としても、私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない。」
(中略)
「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々――というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な『正統』の条件を充たさないからこそ、『異端好み』の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。前に出した例でいえばよその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が『伝統』化しているのです。」

……ちょっと引用が長くなったけれど、まあこんな具合です。

余談

日本語のような表意文字表音文字を併用する言語は、実はそう多くないらしいのだが、表意文字表音文字では脳内で処理される部位が異なっているそうだ。つまり日本人の脳は文字を二箇所に振り分けて並行処理をしている。
その特殊な脳内処理が、マンガ脳――否定的な意味ではなく、文字と絵とコマを同時に情報処理をしながら物語を読み進めることだと考えてもらって良いと思う――を生み、日本を漫画先進国へと牽引しているそうだ。なるほどねー。
他には難読症ディスレクシア・dyslexia)についての議論も面白かった。村上春樹1Q84』にも出てきたモチーフだが、というやら日本人にはディスレクシアの問題はほとんど発生していないらしい。それも脳内での文字の処理部位に起因するところが大きいそうだ。
俺はあまり日本人や日本語や日本文化の特殊性を云々する趣味はないけれども、そうした側面は確かにあるのかもしれない、と素直に思った。

余談2

日本人論・日本文化論なら、俺は冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』を大推薦する。
「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)