村上龍『すべての男は消耗品である。 VOL.4:1992年10月~1995年8月 不況とオウム』

すべての男は消耗品である。VOL.4: 1992年10月?1995年8月 不況とオウム

すべての男は消耗品である。VOL.4: 1992年10月?1995年8月 不況とオウム

村上龍が長年書いているエッセイシリーズ。これまで敬して遠ざけてきたが、電子書籍化されているのを知り、まとめて読んでいる最中。

VOL.4は、多分リアルタイムで読んでいても単なる駄文としか思わなかっただろうが、俯瞰的な視点で読むとかなり興味深い点が幾つかある。

まずキューバ音楽との邂逅による村上龍の変化である。正確にはVOL.3の時点で既に村上龍はキューバ音楽と出会っていたのだが、トパーズという映画を長い間かけて撮影し、その撮影が終わった後ぐらいから頻繁にキューバに行くようになった。またキューバ音楽を日本に紹介するようなイベントを幾つも手がけ、またキューバ音楽の音楽レーベルも立ち上げた。そしていわゆる「夜遊び」を全然しなくなるのである。村上龍は麻薬と乱交に明け暮れるような20代を過ごし、その後も高度経済成長とバブルの波に乗ってとんでもない贅沢三昧や、セレブな海外滞在をしてきた。1ヶ月日本にいるだけでそれがエッセイのネタになるほどの放蕩ぶりで、それは本シリーズのVOL.1やVOL.2を読めば一目瞭然だ。しかしVOL.4にもなると、日本だろうがニューヨークだろうが、夜はホテルや決まったレストランで一人食事をし、キューバ音楽を聴くようになる。スナックのはしごもクラブのはしごもしない。銀座のクソ高い寿司屋やイタリアンに行くこともなくなった。麻薬と乱交なんてもってのほかだ。村上龍本人も書いているように、これはオタクのナイトライフである(わたしもそうだ)。一方、ハバナ(キューバの首都ね)に行くと生のキューバ音楽を求めて朝まで眠らないし、キューバ音楽を愛する人たちと一晩中語り合うのである。これは村上龍がおじさん化した(老いた)のとはちょっと違う。彼の持つオタク的資質とその対象が結びつき、オタクとして開花したのだろう。わたしもハマればとことんのタイプだから、何となくわかる。

次に文体と村上龍の一人称について。VOL.3の感想で、村上龍が文体など考えたこともないと述べていた旨を書いたが、VOL.4ではアッサリと宗主替えして、全ては技術だと思うようになったと言っている。そして「技術」と関係あるのかないのかわからないが、ある回のエッセイで急に、今回の話は「オレ」って書くと何となく気恥ずかしいから「私」と書くようにすると言い出し、その後はずっと一人称が「私」になった。まあ年齢の話もあるのかなとも思うし、VOL.1やVOL.2では数行に1回は「オレ」と出てきたのだが、VOL.3の後半ぐらいからだんだん文章が洗練されてきて「オレ」の頻度が減ったことは感じていた(といってもミクロに見ると相変わらず思考の垂れ流しなんだけどね)。

実はわたしも、最初はずっと「俺」と書いていたのだが、5年ぐらい前から「私」となり、2〜3年前から「わたし」にしている。俺だと地が出すぎているし、私だと硬すぎる気がしたので、一人称の表記は極限までフラットにしたいと思って「わたし」にしている。ブログでは一生「わたし」かなと思う。なお現在、ビジネスでは「私」で、プライベートやくだけた物言いのときは「俺」なので、「俺」「私」「わたし」は実は自分としては明確に使い分けられている状態だ。

閑話休題。もうひとつ、中上健次についてのコメント、これは「そっけない」とでも言うべきものだったが、強烈に胸を打った。中上健次については実はけっこう意識している。『枯木灘』『地の果て至上の時』『奇蹟』『讃歌』『十九歳の地図』『鳩どもの家』『岬』『千年の愉楽』『重力の都』とそれなりに(しかも貪るように)読んだし、村上龍との対談集『ジャズと爆弾 中上健次vs村上龍』も読んだのだが、全てブログを始める前のことで、記録には残していない。とにかく登場人物を取り巻く「血」の濃さと、彼が「路地」と称する被差別部落という「地域共同体」の濃さに圧倒され、衝撃を受けたことはよく覚えているが、たとえブログがあったとしても当時の自分に感想は書けなかっただろうな。どう言えば良いのか、とにかく布団の上に誰かが乗っているような、顔の上にタオルをかぶせられているような、形容しがたい息苦しさがあった。一度読むと全力疾走をしたみたいになって、読み返したいとは思わなかった。でもまあ、もう20年経ったし、話の筋なんてすっかり忘れているから、もう一度読んでみたい気もするなあ。

さらにもうひとつ。『KYOKO』の主演女優は、誰もが知る有名女優の高岡早紀なのだが、実は高岡早紀は代役である。元々はオーディションで選ばれた宮下今日子という方が主演女優だったようだ。本書で一度だけ名前が出て来る。しかしその後は主演女優とだけ書かれており、その次に名前が出たときは高岡早紀になっていた。
試しに「宮下今日子」という名前をGoogleで検索してみると、Wikipediaに載っている。が、KYOKOの話は載っていない。当然だ、降板したんだから。そして降板した宮下今日子の代わりに高岡早紀が主演を務めたということのようだ。なお宮下今日子は八嶋智人の奥さんでもある。

最後に、「不況とオウム」という副題は、本書の内容とほとんど関係がない。世の中は確かに不況とオウム(もっと言うと不況と阪神大震災とオウム)だったのだが、この時期の村上龍はキューバと小説(五分後の世界)と映画(KYOKO)しか見ていない。本書のラストあたりでは、ちょっとオウムの話もしているけれどね。