村上龍『すべての男は消耗品である。 VOL.3:1990年5月~1992年9月 バブル終了』

すべての男は消耗品である。VOL.3: 1990年5月?1992年9月 バブル終了

すべての男は消耗品である。VOL.3: 1990年5月?1992年9月 バブル終了

村上龍が長年書いているエッセイシリーズ。これまで敬して遠ざけてきたが、電子書籍化されているのを知り、まとめて読んでいる最中。

昨日、村上龍のエッセイを評して「こちらは何も考えず、酒場で管を巻いているおっさんの話を聞いているようなものだから」と書いた。実際、大半はそうなのだが、決してそればかりではない(もし本当におっさんが管を巻いているだけの文章なら、本など買わず、場末の居酒屋に行けば良いのだ)。おっさんの与太話だと片付けられない鋭い指摘も当然ある。

例えば本書(VOL.3)では、バブルの真っ只中にありながら、土地本位性の危うさに警鐘を鳴らしている。しかも経済的な観点ではなく、文化的・思想的な観点からである。といっても、贅沢がどうこうといった陳腐な主張ではない。落合が爆発的なバリューを出して1億円を稼いだってマンションひとつ買うこともできないのに、昔から持っている土地を転売しただけで何十億も稼げてしまう当時の世相に対してである。もっと言えば、そういう土地成金が、「既に価値の決まっている絵を200億円も出して購入する」という愚行にである。繰り返すが、質素がどうこうとかジニ係数がどうこうといった話では全然ない。むしろ逆で、(村上龍はこんな表現は全然していないのだが)わたしの理解では、圧倒的な個が圧倒的な成果を出しているのに凡人の方が報われてしまい、かつ凡人がバブルに溺れて凡庸な振る舞いをしてしまう日本という国は非常に退屈で、この先きっと衰退・退行するという警鐘だ。この後の歴史を見てもらえばわかるが、この後、実際に日本は衰退し、退行した。

村上龍の根底にあるのは、結局、日本がどうこうとかいう話ではなくて、圧倒的な個を確立しなければ、世界をsurviveすることはできないというものだ。

まあ退屈な人間が退屈で閉鎖的なままであっても、生きることはできる。生きることは……。もちろん、ここでのsurviveとは、もっと違う意味合いである。

村上龍のこの辺の焦燥感は、1994年に発表された『五分後の世界』という作品に結実する。その辺の話は次のVOL.4で書かれるのかな。気になる。

あ、もうひとつ、村上龍ファン的には文体に関する言及も興味深かった。村上春樹は繰り返し「文体が全て」と文体の重要性を語っている一方、90年代初頭の村上龍は、文体なんてクソ食らえで考えたこともないし興味もない、といった旨を書いているのである。しかし実のところ村上龍の文体もけっこう特徴的かつ変遷・進化しているから、この辺ちゃんと掘り下げると面白そうだな。