呉智英『言葉につける薬』

呉智英は、在野にして異端の思想家・評論家である。「封建主義者」「明るいサベツ主義者」「反動主義者」といった物騒な看板を引っさげて、仇討ち制度の復活などといった数々の暴論を吐きまくっている。異端だけあって、呉智英の普通とは違った観点からの面白いモノの見方にハッとさせられることもあるが、反面、すぐムキになって下らない相手と収拾のつかない論戦(というか揚げ足合戦?)を繰り広げたり、世界的な漫画評論家の一面を持っていたり、どうにも憎めないオッサンである。

さて本書は「言葉」についてのエッセイなのだが、「言葉」について何かを述べるとなると、とかく「近頃の若いモンは……」とやってしまいがちである。確かに呉智英も言葉が乱れていると述べているが、しかしそれはジジババの「近頃の若いモンは……」だとか「古き良き日本語を……」といったレベルにおいてではない。その箇所を少し引用しよう。

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい。トシヨリなら必ず言う口ぐせのようなものだが、私が言うのは少し意味が違う。普通トシヨリが非難するのは、若い女性が乱暴な言葉遣いをするとか、「見られる」を「見れる」とするような俗語表現・口語表現に関わるものだ。こういったものは、あまり意味のある非難とは思えない。俗語表現はいつの時代にもあったものだし、俗語表現なのだから乱暴に決まっている。若い女性たちが「てめえ、ハンバーグおごれよ」などと言い合っているのは、彼女たちの仲間同士の親密さの表われにすぎない。彼女たちも、これはと思う男性が登場してなお「てめえ」とは言いはしない。逆にお上品ブリッ子になってしまうだろう。(P113)

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい、という声は良く耳にする。しかし、そういう人たちに何がどうおかしいのか、つっこんで聞くと、たいてい、流行語のことであったり、仲間同士の乱暴な口のきき方であったり、ということばかりだ。こういうものは、おかしいと言う方がおかしいのだ。近頃に限らずどんな時代でも、粗野な表現、軽薄な表現、くだけた表現、というものは存在する。それが使われるべきでない場所で使われた場合のみ、ふさわしくない言葉として非難されてもよい。(P149)

全くもって呉智英の言う通りだと俺も思うが、では筆者の考える「言葉」の乱れとは何なのだろうか?

私はあまりにも誇大な話をしているのだろうか。自分の力量を省みれば、そうかもしれない。しかし、仮にも思想に関わり、言葉を金に換えて生活している以上、思想と言葉に感心と矜持を抱くのはむしろ責務だろう。『ヨハネ福音書』の冒頭の有名な一節、「初めに言葉ありき」の「言葉」が、原ギリシャ語で「ロゴス」であることは偶然ではない。言葉と論理、言葉と思想が深くつながっていることを暗示しているのだ。(P11)

呉智英の考える「言葉」の乱れとは、乱暴な言葉遣いや「ら抜き言葉」といった表層的な俗語表現・卑語表現などではなく、思想や論理と深く結びついた根元的な「言葉」の乱れ――つまり言葉を使う側の「論理」や「思想」の乱れなのである。呉智英は「単語」ではなく「言葉(ロゴス)」を正したいのである。

……と、こう書くと本書はとても堅苦しい本のように思えてしまうかもしれないが、実際は呉智英自身が認めているように「言葉雑学漫歩」の趣も強く、純粋な娯楽書として、あるいは教養書や雑学書としても十分に楽しめる。本書の「言葉」の乱れとは、具体的には、中途半端な活字憧憬や、自動検閲装置で差別語を排除することによる思考力の衰退、無知から来る中学生並みの誤用誤文などを指すのだが、例えば「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則を「悪いモノが世に受け入れられて良いモノが受け入れられなくなってしまう」といった意味で捉えている人はいないだろうか? マスコミを含め多くの人がそう捉えているが、これは誤用である。もちろん俺も初めて知ったけどね。

「言葉」について書かれた本の中ではかなり面白い部類。オススメ。