呉智英+適菜収『愚民文明の暴走』

愚民文明の暴走

愚民文明の暴走

呉智英と適菜収による対談集。
呉智英は、「近代民主主義とは一言で言えば、バカは正しいという思想」と喝破し、反民主主義を掲げる思想家・評論家である。かつては、こんなことも言っていた。

 民主主義は少数者の立場を尊重する思想である、という人がいる。いや、新聞でも書物でもしばしばそのように説かれる。
 だが、そんなバカなことがあろうか。民主主義は多数者の立場を少数者に押しつける思想に決まっているではないか。フランス革命は、王侯貴族など少数者を打倒した多数者民衆の運動であった。少数者の立場を尊重したら、反民主主義的な王制はそのまま続いていた。アメリカ独立革命も、多数者の立場を少数者に押しつけるものであったからこそ、その後の少数者黒人を奴隷にする制度が保障されたのである。

一方の適菜収は、細かいところでは当然呉智英と考えが違うところもあるが、後に引用するように、民主主義の根幹と言って良い「多数決」というシステムを「反知性主義」と断じ、かなり懐疑的な立場を採っている。
そんな2人が対談しているのだから、本書でもやはり民主主義批判が展開される。
まず「第一章 バカは民主主義が好き」から2ヶ所ほど引用するが、ポイントは主に2つある。ひとつは、民主主義は成人しさえすればバカや日本に悪意を持った人間でも「平等に」主権を有してしまうという点で、もうひとつは、国民主権といっても実際には代議制である(つまり「バカ」が「判断する人」を選んでいる)のに、それが十分に理解されていないという点である。

適菜 たとえば参議院は「良識の府」と呼ばれています。参院議員に必要なのは良識です。それでは、選挙で良識を選べるのかという問題がある。多数決の根本にあるのは反知性主義でしょう。一人のソクラテスより二人の泥棒の意見を採用するのが多数決です。そうすると、多数決で良識を選ぶというのはかなりおかしな話になる。
 それは、適菜君の言ったとおりで、良識なるものは選挙制度にふさわしいのかというのは根本的な問題なんだ。代議制はそのまま国民の意見を反映するわけにいかないから専門家を選ぶということだが、そうすると国民主権でもなんでもなくなるよね。
適菜 だから少なくとも、参議院では民主選挙をやってはいけないはずなんですよ。そもそも、なぜ議会を二つに分ける必要があるのか。それは民意を反映させる下院と、その暴走を防ぐ上院という役割分担があったわけで。かつての貴族院も当然非公選です。でも今は、「政治にはスピードが必要だ」「参議院は衆議院のカーボンコピーになっているから廃止しろ」などとバカなことを言い出す連中がいる。参議院のあり方が歪んでいるなら、本来のあり方に戻すべきなのに、まったく逆のことをやろうとしているわけですね。

適菜 近代啓蒙思想家と呼ばれる人たちがいます。彼らは学問として国家を扱ったわけです。でも、実際の国家は揺れ動いているものですから、一度抽象化し、あくまで思考実験として国家について考えた。民主教の教祖とされるルソーでさえ、民主主義を現実には選択できないことくらいはわかっていたはずです。でも、それがイデオロギーになると暴走する。(略)左翼は一般的にバカですけど、それは学問的な一貫性を実社会に反映させることができると信じているからですね。
 優等生バカ、あるいは原理主義バカだね。
適菜 そうです。それと、もう一点、近代啓蒙思想の危険性を指摘する言論もヨーロッパにはありました。(略)まともな思想家、哲学者はほぼ例外なく民主主義を否定しています。しかし近代日本は、その片面しか受容しなかった。それで近代啓蒙思想に毒された人たちが戦後社会を形成していくわけです。日本では日本特有の形で近代が暴走するようになった。三島由紀夫はこの事象を「近代史の読みとばし」という言葉で正確に説明しています。(略)
 今の適菜君の話したことにしても、ジャーナリズムで仕事をしている人たちはあまりわかっていないんだ。ルソーの「ヴォロンテ・ジェネラル」、一般意志というものを楽観的にみんな見ているけれど、大衆が暴走すればこれはファシズムでもなんにでもなる。

今度は「第六章 民主主義か哲人政治か」からも引用してみたい。なお原文では改行はなかったが、読みやすさを考慮して引用時に改行を行った。

 俺が前から提唱しているのが、選挙権の免許制とそれに伴うポイント制。国民一斉に常識程度の試験をして、それに通った人に選挙権を与える。だって、自動車免許だって薬剤師免許だって教員免許だってあるのに、選挙権だけ免許がないなんて、考えてみたら異常ですよ。
政治から受ける権利は平等でいい。それを制限する理由はないでしょう。その権利を享受するのに能力は何の関係もないし。しかし、政治をするのは、権利ではなくて能力だからね。
むろん、その試験は中卒程度の、つまり義務教育程度の、しかもそのぎりぎりの及第点レベルでいい。義務教育の本旨にも合うしね。さらに、この試験を一種、二種、三種……と分ける。自動車免許だって教員免許だって、区分があるから。そして、種ごとに選挙権ポイントを決める。一種は一ポイント、二種は二ポイント、とか。要するに、持ちポイントを分割して投票できる。
こうすると死票もなくなるし、何よりも政治への責任感が強まる。どうせ自分が一票投じても同じだという無責任、無関心がなくなる。(略)選挙権免許制・ポイント制を導入しても、自民党が勝つか民主党が勝つかといった結果は、現在とほとんど変わらないと思う。変わるのは国民の政治意識、政治観。投票の結果は、ほぼ同じでしょう。

実に呉智英らしい選挙制度の改革案である。民主主義を妄信している人間には到底受け入れがたい内容なのだろうが、私は少なくとも「暴言」や「思考実験」の類とは全く思えない。導入を真剣に検討すべき政治改革案と評価する。
特に「政治をするのは、権利ではなくて能力だからね」という言葉が良いね。
呉智英という人は、当たり前のことを、タブーを恐れず、きちんと声高に言ってくれる。

余談

私は必ずしも政治に無関心な人間ではない。しかし「政治的な人間であること」と「投票行為に熱心であること」は、全く別の話である。私は(納税義務などの対価として得られた権利を放棄しないため)投票には極力出かけようとしているが、政治そのものについての不信を明確にするため「白紙投票」とする、ということが多い。もちろん(一時期の民主党のような)閾値を超えた有害集団が現れた時はその対抗集団に投票するけれども、「人気取りゲーム」と「椅子取りゲーム」の乱痴気騒ぎから脱しない限り、私が真剣に投票行為をする気にはなれない。
結局のところ、(政治が絡むエントリーを書く度に引用する)村上春樹+安西水丸『村上朝日堂の逆襲』に書かれた村上春樹のコメントに、私の十年来のスタンスが未だに集約されていると言わざるを得ない。そろそろ変わってほしいと思うが、政治システム・投票システムが根本から変わらない限り、それは無理だろう。本書を読んで改めて意識したが、私は今の「バカがバカを選ぶ」選挙制度と、その結果として毎度見せつけられる「茶番」に、心底うんざりしているのである。

 どうして選挙の投票をしないのかという彼ら(僕を含めて)の理由はだいたい同じである。まず第一に選択肢の質があまりにも不毛なこと、第二に現在おこなわれている選挙の内容そのものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。とくに我々の世代には例の「ストリート・ファイティング」の経験を持つ人が多いし、終始「選挙なんて欺瞞だ」とアジられてきたわけだから、年をとって落ちついてもなかなかすんなりとは投票所に行けない。政党の縦割りとは無関係に一本どっこでやってきたんだという思いもある。何をやったんだと言われると、何をやったのかほとんど覚えてないですけれど。
 もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点があって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主義の衰退だと言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケースを提供することができなかった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみに責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。