石原千秋『読者はどこにいるのか 読者論入門』

本書について

小説を読むを読むとはどういうことなのか?

小説を読む人すなわち読者とは何なのか?

読者は、小説に対してどこまで自由な読みが許されるのか?

――これを考えるのが読者論だ。広義には文芸批評論そのものと言えるかもしれないし、狭義には小説における自己論・自我論という話なのだろう。

内容については、本書の「おわりに」で丁寧にまとめられている。

 この本で試みたのは、次の四つのことだ。少し難しい書き方になることをお許し願いたい。
 第一は、日本の近代文学研究では、どのようなパラダイムを背景に「読者」が音大として浮かび上がってきたのかについて明らかにすること。(略)
 第二は、小説テクストにおいて「読者」がどのような機能を果たしているかを明らかにすること。この場合の「読者」は現実世界に実在している読者とまったく手を切っているわけではないが、現実世界からは相対的に自立しており、小説テクストの呼びかけに応えるような「読者」である。また、現実世界の経験をもとに、私たちが小説テクストを四つの物語に類型化して読むだろうことにも触れておいた。要するに、「読者」は現実世界と小説テクストとの間に概念として・・・・・「存在」するのである。この構造を説明するためには「語り手」という概念が機能しなければならないことも、実例を示して論じた。これは一般の読者に、小説テクスト内で自分がどのような「読者」になっているかということに自覚的になってほしいために書いたのである。
 第三は、こうした読者論とカルチュラル・スタディーズとの接続を試みたこと。そのために「内面の共同体」というやや舌足らずな概念を提案した。「内面の共同体」とは、他人も自分と同じように読んでいるだろうという間主観的な意識で、現実には読者の内面を規定していながら、読者が十分には意識できないようなパラダイムのことである。(略)
 第四は、柄谷行人『近代文学の終り』(略)に対する、異議申し立てを試みたこと。柄谷行人は「内面」を書くような近代文学は終わったと説くが、それは現代社会の内面に対するパラダイムと読者との結びつき、すなわち内面の共同体を無視した議論ではないだろうか。この点について、現代の内面志向のパラダイムを前提に、最近の小説を例に文学の内面志向について論じた。
 以前からそうしてきたが、これらの課題のために文学理論を援用することをためらわなかった。(略)文学には「実証」できなくても論じなければならない領域があると思っている。「読者」はそのさいたるものだが(引用者注:「最たる」と書いてほしいが編集ミスでは?)、このレベルまでは共通理解としておきたいことを書いた。
 これらの議論を通して、私たち読者がいまどこにいるかが問われることになるだろう。また、私たち読者がどういう仕事をしているかが問われることになるだろう。この本が、多くの読者にとって自らを映し出す鏡のような役割を果たせたら嬉しい。

石原千秋は夏目漱石の研究者として有名だが、それと同時にテクスト論の信奉者として有名だ。テクスト論をわたしなりの言葉で説明すると「文章を"作者の意図"から切り離して、あくまでも文章それ自体として読もうとする思想であり立場」だ。テクストから読み取れるならば、あるいはその可能性をテクストから否定できないのであれば、作者の意図から遠く離れた"誤読"も上等だとみなす立場だと言い換えることもできる。

なお、テクスト論を突き詰めると、読者の存在や立場に自覚的にならざるを得ないので、この本が出たとき「石原千秋の文学研究の到達点なのかな」と思ったが、それは半分正しい。「半分」というのは、著者は近年、どうやら「研究者向け」ではなく、広く社会に向けて発信することを今まで以上に重視しているらしいからだ。著者はなんと学会の改革に取り組み、その達成と同時に学会自体を退会したそうなので、生半可な決意ではない。個人的には、改革したならそのまま続ければ良いだろうという気もするが、当人なりの「けじめ」のようなものがあるんだろうなと。

門外漢のわたしには、本書が厳密な意味で"研究"としての業績なのかどうかはよくわからないため、「半分」と書いた。しかしいずれにせよ、わたし自身は面白く読み、色々なことを学び、また考えさせてもらった。これが少しでも達成されたならば、わたしが「本書が厳密な意味で"研究"としての業績なのかどうかはよくわからない」と書いたところで、著者も細かなことは言わないだろう。

本書を手に取った背景にあるわたしの問題意識

さて、ここからは少し脱線する。

読者論は、世の中的には単に「古いテーマ」なのかもしれない。しかし個人的には「古くて新しいテーマ」である。

例えば昨今、SNSでは誰かの言説、ベタに書くなら「投稿」が本人の意図を超えて甚大なインパクトを残すことがある。舌禍事件、今風に呼ぶなら「炎上」である。その際、炎上させた側が「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」などと書いて沈静化を図るケースがあるが、これはもう炎上対策としては0点だ。ほとんど必ず「お前の本心が我々大衆に正しく伝わっているのに"誤解"とは何事か」「こちらが不愉快な思いをしなかったら謝罪する必要がないという表明は"真の謝罪"ではない」という反応が来て、さらに激しく炎上する。

この件でわたしが興味深いと思うのは、この大衆の揚げ足の取り方(と言うのも失礼だが)自体、実はネットで学習されたものだという点である。一昔前は、炎上サイドが効果の低い釈明会見をしたところで、せいぜい「何となく不愉快だ」「それっぽい言葉で誤っているだけで反省しているように見えない」という程度の解像度で大衆は怒っていたと思う。しかしこの20年ぐらいのSNS空間において、大衆はもう様々な形で揚げ足を取り続け、本来そこまでロジカルでない人間までもが「これに対する漠然としたもやもや感はこう表現すれば良いんだ」と学習し、その結果、その辺の大衆が(と言うのも失礼だが)、この程度の切り返しは簡単に言語化してしまう。そして、更に別の人が、自分の不満をより強く認識して燃え上がらせるロジックを学び、使い出すのである。

わたしは、はてなブックマーク(はてブ)というソーシャルブックマーク(SBM)のサービスの黎明期からのユーザーだ。他の人が考えていないような視点やロジックで世相を切り取ることや、他の人の視点やロジックを見るのが好きだったのかなと思う。いや、もっと言うと、SNSという言論空間で、適切な視点やロジックが広まっていくのが面白かったのかなと思う。サイバーカスケード(人が特定の意見を見聞きして、最後は大きな流れになること)というやつである。

しかし最近は大きく2つの観点で、SNSの言論空間はつまらない、かつ危険なものだと思うようになった。ひとつは、サイバーカスケードを通り越してエコーチェンバー現象としか思えない(サイバーカスケードと違って自分の考えが正しいというのが前提にあり、その他の考え方を排除するもの)危険な世論の盛り上がり方をしていることだ。そしてもうひとつが、この「エコーチェンバー」というワード自体が象徴的なのだが、当人が「自身の主張ありき」で、正しく理解していないワードや視点・ロジックを都合よく使ってSNSの言論空間のうねりを産み出している点だ。つまり単なるエコーチェンバー現象ではなく、「自身の主張ありき」かつ「間違ったワードや視点・ロジック」を元に、陳腐な世論というか空気が形成されているのである。劣化エコーチェンバー現象とでも呼ぼうか。

この劣化エコーチェンバー現象については複数の問題があり、まず、これによって作られた世論というか空気が実につまらない通俗論であるということだが、殊「炎上」に絞ると、批判自体がまともなワード・視点・ロジックではないことから、反論自体が難しいという新たな問題も生むようになったと感じる。

例えば、最近の文春砲で話題になっているダウンタウンの性加害問題。これについては色々な意味で下らないと思っているため、正直あまり語りたくない。しかし、ひとつだけ指摘というか問題提起をしたい。松本は今、何が批判され、何が彼の仕事を「キャンセル」させるほどのインパクトがあり、何に反論すれば良いのか、松本自身がおそらく理解できていないだろう。何故か? 松本が馬鹿で古い考え方だからではない。批判している大衆の側が馬鹿だからだ

自分を不快にさせている、お笑いというのは何となく「いじめ」の要素があって何となく気に入らない、女性を大切にしない言動はあまねくけしからん、といった実にふんわりした理由で、大衆は批判を続けている。おそらく何を批判しているかすらわかっていないだろう。ただ批判の炎はとんでもなく大きくなっている。そして松本が何を言っても、そして何を言わなくとも、ただひたすらに憎悪を拡大させている。マスゴミの責任? そんなもの語る気もない。文春砲だけがジャーナリズムだという過激な論客もたまにいるが、とんでもない。もし文春以外のジャーナリズムが死に絶えたと感じているならば、世の中すべてのジャーナリズムは既に絶滅済だ。アンジャッシュ渡部や広末涼子の不倫の報道に何の社会正義があると言うのだろう?

話を松本の件に戻すが、当然わたしは事実を知る立場にない。しかし今のところ松本は性加害を否定しており、現状確固たる証拠もないわけで、推定無罪の原則から彼はまだ犯罪者ではないわけだが、社会的リンチに異を唱えた人間も「擁護派」として酷い暴力行為に晒される。その結果、テレビ局やスポンサーも何が問題かよくわからないまま「神様たるお客様が声高に言っているのだから」と「キャンセル」の要請に応えて仕事を奪う、すなわち経済的損害を与えている。これは先ほど書いた劣化エコーチェンバー現象そのものなのだが、単に下らないだけでなく、実に暴力的で危険な風潮だとわたしは感じる。

もう一度書く。自分を不快にさせた、自分の思想信条に合わない、気に入らない人物や言動であるという理由で「相手を社会的にも経済的にも抹殺するまで追い込んで良い」という風潮がSNS上では既に確立されている。さらに驚くべきことに「告発すること/晒すこと」と「事実かどうかわからない一方的な訴えを理由に、一個人が制裁を加えること」は今、とても良いことだとされている。そして実際に、数多くの大衆が思い思いの「気分」で、数多の人間や組織を社会的・経済的に抹殺している。私人逮捕系YouTuberの活動には賛否両論あるそうだが、それに否を唱えた人間が返す刀でダウンタウン松本やアンジャッシュ渡部や広末涼子を殴りつけている。松本もさることながらアンジャッシュ渡部や広末涼子が何をした? 不倫は犯罪ではないし、奥さんや家族と、多目的トイレを不正に使われたビルの運営会社が怒れば良い話だ。彼らのCMやテレビ出演を皆で圧力をかけて経済活動を妨害し、社会的・経済的に抹殺するなど信じられない暴力行為だが、なぜだか多くの人間がそれを正しい、推奨される倫理的な行為だとすら思っている。

もう一度書く。劣化エコーチェンバー現象に基づくキャンセルカルチャーは、極めて暴力的で危険な風潮だとわたしは感じる。

……長くなったのと、時間が迫っているので、まだまだ途中なのだが乱暴にまとめよう。わたしは読者論の本の感想で、なぜこんなことを書いているのだろうか? テクスト論における「誤読する権利」をわたしは面白いと思っているが、それはあくまで文芸批評上の話である。現実のSNSなどの文章には、上記のような暴力的で危険な風潮を背景に、むしろ「誤読しない義務」があるのではないかという当たり前すぎる問題意識を持っていた。だからわたしにとっては読者論は「古いテーマ」ではなく「古くて新しいテーマ」として、単なる小説の解釈ではなく、現実と接続しながら本書を読んでいた、そういう話である。

冒頭で挙げた問題意識に戻ろう。冒頭で、炎上させた側が「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」などと書いて沈静化を図るケースがあると述べた。わたしは元来、この手の謝罪の仕方を嫌うタイプである。ロジックがズレているからだ。ロジックがズレているというのは、筋が通らないということだ。わたしは真面目なので、筋の通らない話で何となく沈静化を図るのは、わたしは乱暴だし欺瞞だと感じる。しかし最近、わたしはこの手の筋の悪い謝罪の仕方に指摘をすることは、はてブでもリアルでもほとんどなくなった。なぜか? ひとつは前述の通り、この手の揚げ足取りのパターンを皆が学習して我先にと指摘するため、わたしが敢えて指摘することに面白さを感じなくなったためである。そしてもうひとつは、「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」という昭和な弁明が、実は単に未熟なのではなく、この言い回し自体が"真実"の一端を表していると思うようになったからだ。ここ、実はまだまだ色々と言いたいことがある。あるんだが、今日はこの辺にしておこうと思う。機会があればどこかでまた……。