わたしがどのようにして読書にハマっていったのかを極私的に語ってみようと思う

はじめに

以下のページでも書いているが、元々わたしは1999年の5月1日に、ホームページビルダーというソフトを使ってホームページを立ち上げた。ホームページという書き方が既に時代を感じるが、まあ事実としてホームページとしか言いようのないものだったので仕方ない。そこでバイトの愚痴やゲームのプレイ日記といったどうでも良い雑記をつらつらと書き連ねながら、2000年8月1日より書評コンテンツを開始。その後はてなダイアリーに移行した後、はてなブログに移行して今に至るわけである。

incubator.hatenablog.com

つまり2020年の8月1日で、書評コンテンツはめでたく丸20年を迎えたということである。成人したね。

だからというわけでもないが、自分にとっての読書の原体験を整理してみた。10年前にこれのプロトタイプ的な文章を書いたのだが、何となく消し、何となく未整理のまま放置していた。今回はこれをブラッシュアップしたものである。

わたしはブログの中で「自分語り」をほとんどしないので、ある意味貴重。

わたしの読書遍歴

わたしはこれまで20年に渡って、合計3,200冊を超える読書記録をつけているが、実は中1から高3の年末まで、ただの一冊も本を読んだことがなかった……と書いてから思い出したが、友人に薦められて『スレイヤーズ』『無責任艦長タイラー』『鉄甲巨兵 SOME-LINE』だけは読んでいた。でもこれらライトノベルの走りを除けば、やはりただの一冊も本を読んだことがなかった。

で、今はこの有様。実に極端だ。

誰の役に立つでもないが、何となくわたしが何故、このように読書沼に落ちることになったのか、思い出しながら整理してみたい。

小学生時代

父親と母親は、本をあまり買う人間ではなかった。父親はIT系の技術者だったようで、コンピュータ関連の本や雑誌はいくつかあったが、全く内容を理解できなかったので深くは覚えていない。母親は、どうだったのだろう。そもそもあまり本を読まなかったように思う。よくある生活系の雑誌はそれなりに読んでいたようだったが、本は何冊かの料理本とエッセイを持っていた程度だったと思う。そもそも両親で戸棚付きの本棚がひとつあるだけで、そこに本だけでなく雑誌やら小物やらも置いていた。

しかし父親は、本自体はそれなりに読んでいた。つまり図書館を活用していたのである。いま思えば、父親は家族のために自分の小遣いを削ってくれていたのだと思うが、父親はほぼ毎週図書館に行き、何かしら本を借りていた。コンピュータ関連の本、ミステリやエンタメ文学、将棋や囲碁の本。カメラや写真の本も多かったな。それ以外も色々借りていたと思うが、その辺は何となく記憶に残っている。枕元には常に図書館で借りてきた3〜4冊の本や雑誌があるという感じだったな。

いつの頃からか、父親は毎週図書館に行った際に、わたしが読む本も借りてくれるようになった。いつから借りてきてくれていたのだろう。わたしは図書館の絵本を何十冊も読んだ記憶はないから、小学校3年生ぐらいからだったのかな。その辺の記憶は全然ないが、いずれにせよ当時のわたしは、どうやら本を読むのが嫌いではなかったようだし、図書館も嫌いではなかった。一方、図書館で本を選ぶのは気が進まなかったというぼんやりとした記憶がある。だから学校の図書館は、授業の一環で借りさせられた場合を除き、ほとんど利用したことがない。面倒だったのかな。選ぶのが、あるいは借りるのが恥ずかしかったのかもしれない。いずれにせよ、本を選んで借りるという行為は、大抵は父親がやってくれていた。児童文学もさることながら、有名人の伝記・ファーブル昆虫記・シートン動物記といったドキュメンタリーチックな児童書を愛好していた記憶がある。特にファーブル昆虫記とシートン動物記は猛烈に好きだったな。シリーズ全巻読んだと思う。ベーブ・ルースや野口英世の伝記も記憶に残っている。しかし(以下に書く将棋の本を除いて)何を借りてきてほしいという希望を出した記憶はあまりない。だから父親は、わたしの読書状況を見たり話したりしながら、わたしが興味を持つであろう本をセレクトしてくれていたのかなと思う。

さて、わたしは父親や祖父に教わった将棋が気に入ったようで、よく父親と将棋を指していたし、小学6年生の頃などはサッカー部に入れと担任に誘われたのに、わざわざ「将棋・オセロ・五目並べ」クラブに入り、週に1回か2回の放課後のクラブ活動として将棋を指していた。父親に買ってもらった『ニャロメのおもしろ将棋入門』はボロボロになるまで読んだが、わたしはそれに飽き足らず『○○九段の居飛車穴熊』や『四間飛車の定石』といった本を何冊も父親に借りてきてもらって読んでいた。まあ所詮は手を読むこともできないガキの手慰みなので、大して強くはならなかった。特に父親は、わたしの読む本を把握しているため、わたしが次にどんな戦法を使ってくるかも把握しており、結局あまり勝てなかった。さすがに小学生のお遊びクラブではほぼ最強だったけれどね。

余談だが、当時のわたしは振り飛車の方が好きで、相手が居飛車なら、向かい飛車で相手の飛車とガチンコ勝負を挑み、相手が振り飛車なら中飛車をよく使っていた。向かい飛車は、飛車の振り方としては比較的レアで、小学生のお遊びクラブで向い飛車を想定している子はほぼゼロだったというのもある。また、囲いは振り飛車と相性の良い美濃囲いが多かったように思う。急戦でも柔軟に組める上、高美濃囲いや銀冠へと発展させて囲いを押し上げることもできるからだ。

中学生時代と高校生時代

さて中学生に上がると、広島から大阪へと引っ越しをしてしばらくバタバタしていたこと、部活や塾通いを始めて学生生活が人並みに忙しかったこと、中学生にもなって父親に本を借りてきてもらうのも変だということから(わたしがそんなことを言ったことはないから父親が配慮したのだろう)、父親がわたし向けに図書館の本を借りることもなくなり、わたしの読書習慣は消え去った。当時のわたしは自分が本好きであることにそもそも気づいていなかったため、そのことで不都合や不満を感じることもなかったのである。結局、わたしは中学生と高校生のほとんどの期間、ほとんど1冊の本も読まなかった。読書感想文ですら読まずに書いていたくらいだ。

宮本輝『螢川・泥の河』との出会い

自主的に、かつ本格的に本を読むようになったのは、高校3年生の1月である。わたしは早くから「いま浪人しなければ浪人生活は死ぬまで経験できない」などという屁理屈をこねくり回し、たとえ大学に受かっても最低1年間は浪人しようと決めていたため、受験勉強をするのが(全然やっていなかったくせに)嫌になっていた。それにわたしは高3の秋に左手首を骨折して以来、「通院する」という名目で週に1〜2回は学校をサボるようになっており、時間を持て余していた。その上、1月になると受験シーズンに突入して学校の授業もほぼなくなった。さらには、お年玉をもらって軍資金もあった。そのため暇つぶし・現実逃避として、正月明けに自宅近くの本屋で、自分が通う高校のOBであった宮本輝の『螢川・泥の河』をたまたま本屋で買ってみたのである。

「螢川」も「泥の河」も、短めの中編といった感じで、2作品合わせてもかなり薄い本である。しかし当時のわたしは活字を追うのに慣れていなかったこともあり、たったあれだけの分量の本を読むのに何日もかかったけれど、それでも何とか読み終えることはできた。正直に言って「泥の河」は当時まだ面白さを理解できず、それほど面白いとも思わなかったが、何度か引っ越しの経験のあるわたしは「螢川」で描写された引っ越し前の寂しさに共感し、というか勝手に同一視し、興味深く読み進めた。そして「螢川」のクライマックスシーンを読んでいるとき、不思議な感覚にとらわれた。そのクライマックスシーンとは、夜の川辺の草むらで、螢が一斉に飛び立ち、主人公の少年やヒロインを取り囲む。そして少女のスカートの中に淡く光をたたえた螢が入り込み、恥ずかしがる少女と螢の光から少年が目を離せなくなるといった情景である。詳細は違うかもしれないが、少なくともわたしの記憶では大体このような情景だった。

その情景描写を読んでいると突然、「螢」と「少女」と「夜の川」という安直にしてアンバランスな情景が目の裏でバチバチと弾け、作品の幻想的なイメージが脳内に溢れてきた。適度に日焼けした健康的な肢体でありながら瞬間的に分不相応に蕩けた少女の色気、スカートの中でぼんやりと光る螢の美しさ、むせるような夜の川と夏の草むらの匂い――自分で意識してそうしたイメージをヴィジョンや匂いとして思い浮かべようとししたわけではない。しかし文字通り、拳銃で撃たれたのかと錯覚するほどの衝撃と共に、勝手に脳内に流れ込んできたのである。そしてそのイメージは厳密な映像ではないにも関わらず、一方で自分が実際にその場面にいるような気もした。自分の数メートル先に螢が飛んでいる。いま思えば、脳が初めて、活字情報を脳内でイメージ情報に変換し、その世界にわたしが立っているような錯覚をわたしに与えたのだと思う。いわゆる「小説世界への没入」であり、「没入の自覚」である。イメージそのものがわたしの魂の水底にある何かと共振したことを自覚した。文字通り体が微かに震え、気分が高揚した。そして涙がとめどなく溢れた。

わたしは自分自身に起こった現象に驚きながらも、直感的に、ひとつの結論に思い至った。

これが小説を読む快楽か!

その後、わたしは宮本輝の文庫を何冊か買い、読んでみた。素人ながら巧いと思ったし、それなりには面白かったが、「螢川」ほどの感動は一度も味わうことができなかった。それどころか、新しい作品になるほどに何となく違うと感じるようになっていった。当然「螢川」も何度となく読み返したが、やはり筋を覚えてしまうと感動は段々と目減りしていく気がした。

『1973年のピンボール』との出会い

わたしは宮本輝以外の小説も読んでみたくなった。しかし本屋の情報量は広大で、どれを読めば良いのか全然わからない。止むに止まれぬ衝動に突き動かされたわたしは、私立大学の受験期間の真っ只中なのに文学好きで知られる何人かの高校の友人に電話をかけ、有名かつオススメの作家や作品を教えてもらった。特に同じ部活だった友人には、平日の夜に電話をかけて2時間ぐらいしつこくヒアリングしてメモを取ったのをよく覚えている。わたしは当時まだ携帯電話もPHSも持っていたなかったから、お互い家の電話を使っての会話である。向こうも最後はうんざりしていただろう。そしてその中の一人に村上春樹がいたのである。

せっかくだからデビュー作から読んでみるかと、初めて『風の歌を聴け』を読んだとき、よくわからないけれど、何となく自分の魂を揺さぶるような感覚はあった。何かとても新しくて今後の自分の在り方を変えるような予感があった。次に『1973年のピンボール』を読んだとき、「螢川」に続く2回目の衝撃が訪れた。

それは主人公がピンボールマシンと対峙するクライマックスシーンであった。衝撃と共に、やはりイメージが脳内に流れ込んだ。まるで自分がだだっ広くてピンボールしか存在しない空間に瞬間移動したような錯覚。無機質で、匂いはない。そして少し埃っぽい……。温度はどうだったかな。でも寒々しくて、寂しくて、でも鮮烈な光景! そしてわたしの脳内は、ピンボールマシンと対峙する主人公視点のヴィジョン、ピンボールマシンが主人公と対峙するヴィジョン、そしてピンボールマシンと主人公を斜め上から見下ろす俯瞰のヴィジョン、少なくとも3つの視点を同時にイメージ化したのである。

「螢川」のようなわかりやすい筋ではないが、テレビドラマや映画ではおそらく再現できない脳内のヴィジョンに、わたしは感動と興奮を覚えた。

魂の水底の何かが、再び揺れた気がした。ピンボールマシンとわたしの魂が共振した感覚が、確かに在ったのである。

その後、現在に至るまで

この2冊の読書経験を経て、わたしはどっぷりと読書の世界にハマりこんだ。中毒である。

そして何度も面白い本や感動する本や考えさせられる本に出会った。

が、思うような本に巡り合えなかった。その中でも、入試問題に頻出していた高橋三千綱の『九月の空』は読みやすくて面白いと思ったが、高橋三千綱の他の本は面白いと思えなかったため、三千綱ブームもやはり一瞬で去ってしまった。

そこで他の作家の小説も色々と読むようになった。今みたいにネットがあるわけでもないし、ブックガイドのようなものがあることすら知らず、そもそも軍資金も潤沢ではなかったし、古本屋があるという発想すらなかったから、わたしは毎日、自転車で行ける範囲の本屋(街の本屋から百貨店の中規模本屋まで全部で6つあった)の文庫コーナーに行き、平積みされているものを中心に片っ端から手に取って、裏表紙に書かれた小説の紹介文を読み、気になるものをひたすら買って読んだ。時には魂を揺さぶり価値観を変える本にも出会ってきたように思う。けれど、脳内にイメージが濁流のように流れ込む経験は、「螢川」と『1973年のピンボール』の後は、それほど多く出会えているわけではない。わたしが本を読んでいる理由は色々あるけれど、この2冊から味わった感覚を味わうために本を読み続けているという側面も否定はできない。まさに原体験と言って良いであろう。

わたしは、大人も子供も本は読まないより読んだ方が良いと思うし、ある程度までは誰かが手引きをするのも良いと思う。とはいえ、(例えば)先生が子供に無理やり読ませても大した意味はないと改宗者のごとき熱意で信じている。無理やり手に取らされた本を嫌々読んだところで、感動が得られる可能性は低い。そもそも、たとえ長期間にわたって真剣に求め続けたとしても、そう何度も人生を変えるほどの感動を経験できるわけではないのである。