東浩紀『動物化するポストモダン』

PCゲームやアニメーションといったオタク系文化の考察を通して、オタクを生み出す現代日本社会あるいはポストモダン全体の構造を分析しようという本。以下、本書の議論を大体3点に集約して追ってみたい。

まず主張の第一点は、時代区分としての「ポストモダン」をきちんと捉えようというものだ。社会学者・大澤真幸の理論の修正だが、本書では戦後を3つに区分している。まず、1945年〜1970年の「理想の時代」と呼ばれる、理想や国家や大きな物語といった社会を包括する大きなまとまりが機能している段階。いわゆる「ポストモダン以前」つまり近代である。次に、1970年〜1995年の「虚構の時代」と呼ばれる、大きな物語は壊れてしまったものの虚構が作られ機能していた段階。「ポストモダン第一期」である。そして1995年以降、東浩紀が「動物の時代」と名づけた、大きな物語が端的になくなってしまった段階。「ポストモダン第二期」つまり完全にポストモダン化された時代である。

主張の第二点は、「動物の時代」である1995年以降の社会がどのような世界観で成り立っているかということだが、それを東浩紀は「データベース的」と表現している。近代ではイデオロギーや国家といった「大きな物語」が存在・機能していたため、「大きな物語」がそれぞれの「小さな物語」を制御するという構造だった。しかしポストモダンでは、そうした「大きな物語」がなくなっている。そのため、読み込む側がデータベースから任意の場所を読み込み、読み込む側が「小さな物語」を決定するという構造になっているのだ。

主張の第三点は、上記二点の社会全体の変化によって、オタク系文化の性質も1995年を境に変化してしまったということだ。より具体的には、物語の優位からキャラクターの優位へ、作家性の優位から萌え要素の優位へ、オタクの嗜好が変化した。つまり、物語や作家性といった「作品の質」からキャラクターの設定や萌える要素に、「動物的(盲目的)」に反応するようになったということだ。

ただ、以上の本書の議論が的を射たものかどうかは、俺はよくわからない。本当にそうなのか、ちょっと懐疑的である。ポストモダン分析はともかく、オタク分析についての評価は保留したい。本書を読む限り、俺は漫画(アニメではない)のマニアではあってもオタクではないようだし。ただ、オタクという存在に対する独特の差別的な負荷を軽減し、オタクの発生が現代社会の性質と構造的に深く結びついているという事実から目を背けることなく、オタクに対しても現代社会に対しても当たり前のことを当たり前に批評する風通しの良さを作りたい――といった東浩紀の意図は、好意的に受け取った。