高木幹夫+日能研『予習という病』

予習という病 (講談社現代新書)

予習という病 (講談社現代新書)

冒頭を引用する。著者の言いたいことのほとんど全てが書かれているそうだ。

あってほしい子どもの態度
 学校の先生にとって、あってほしい態度というのは、自分が説明をしたときに、
「うん、よくわかった。ありがとう」
 と生徒がみんな口をそろえてくれることでしょう。
 なにか説明をして、
「これはどうなの?」
 と聞いたら、シーンとして誰も答えてくれないという状況だと先生は困ってしまいます。そうならないためにも、事前に勉強してきてくれる子どもがいたら、それはとてもありがたい。
 あるいは、先生が、
「はい、じゃあ、これなに?」
 と質問したときに、パッと手を上げて答える子がいてくれたら、授業のリズムがじつにつくりやすい。
「あ、そうだね。そうそう。これはこうなるんだよね。じゃ、次はね」
 という具合に、スムーズな展開が期待できる。こういう役目をはたしてくれる子ども、すなわち予習してきてくれる子どもは大歓迎です。
 ところが、
「これはどうかな?」
 と聞いたときに、
「いや、先生、そうなんだけど、こういう点から考えたら、それはちょっと疑問があります」
「先生、そうじゃなくてこっちの考えかたのほうがもっとわかりやすいと思います」
 などという生徒があらわれては困ってしまいます。

予定調和の授業のため
 先生にしてみると、ここまでは理解してほしいという部分はたしかにある。ところが、自分の授業イメージという枠を超えた勉強を先に子供にされてしまうと予定が狂う。
「それは一ヵ月後の授業で教える予定のことなんだから、いまは黙っていなさい」
「このクラスで、いまそのことを話しても、他の子にはわからないから話す予定はない」
 と口にできたらどんなにラクかわからないけれど、子どもをさえぎるわけにもいきませんから。
 結局のところ、教師にとって都合がいいのは、先生の意図を汲んでリズムがつくられていくような授業。教科書から逸脱をしない授業(当然、教科書に書いてあることに疑いなど持たない授業)ということになります。その範囲内で事前に学習してきてくれる、たとえば教科書の数ページ先の問題を解いておく、さらに付属の問題集の問題を解いておく分には、なんの問題もない。
 しかし、関連図書を三冊も四冊も読んで調べ上げてくるなどという子どもは、はっきりいって邪魔でしかない。
「先生、この教科書にこうかいてあるけどさ、こっちの本にはこう書いてあってね。それから、もうひとつの本で調べたら、こんなふうに書いてあるんだけど、いったいどうなってるんだろう……?」
 残念ながらこんな生徒は、いまの学校の授業の運営上、あまりありがたくない存在です。しっかり予習をしてきているどころか、ただの“質問魔”“授業妨害魔”になってしまいます。
 要するに予習とは決まった枠のなかでの“予定調和の授業のための作業”。枠そのものを問うことは許されてもいないし、授業のなかで“出る杭”になることはけっして求められていないのです。
 もっと悪くいうと、ここでいう「予習」を是とする態度とは、教師サイドから“出来レースの授業”を生徒に強いることです。それは子どもにとってけっしていいことではないと、私は思っています。

要は、こうした出来レースの授業を強いるくらいなら、予習よりも復習(振り返り)を重視した授業にした方が良い――というのが著者の考え方である。まあ納得はしたが、俺が期待していた内容とはちょっと違っていた。これって「教える側の論理」が先に立っているような気がするんだよな。
予習をし過ぎると、学校での授業が「新しいことを学ぶワクワク感」に乏しいものとなり、子どもが退屈な時間を過ごさなければならなくなるし、まだ「学習」プロセスに熟練していない子どもが訳もわからず新しい分野を生半可に理解すると、かえって正しい理解の妨げになる――これらはもちろん「例えば」の話だが、こういう「学ぶ側の論理」が書かれているものだと期待していたのである。
個人的には、「予習」というときに、全く新しい単元の内容を事前に調べたり読んだりしてくるのと、単に事前に問題を解いてくるのとでは、そもそもの意味合いが全く異なってくるはずだと思っている。特に後者の場合は、仮に「予習」と呼ばれていたとしても、実態は「予習」ではなくて「問題演習のショートカット」だと思う。みんなが集まるところでカリカリ問題を解くのは時間がもったいないし、ササッと問題を解く人間もいれば、じっくり問題を解く人間もいる。問題演習の時間を長く取ると、ササッと解く人間は「他の人を待つ時間」が退屈になるし、問題演習の時間を短く取ると、じっくり問題を解く人間は「消化不良」のまま解説を聞く羽目になってしまう。
もっと言えば、俺が今書いた話は「学校レベル」では成り立つ話なのだが、著者が教えている、有名私立中学を受験するような小学生や塾講師については、こうした前提は全く成り立たなくなる。本気で受かりたい小学生は、予習するなと言ったところで「予習」くらいしてくるだろうし、一定のスピードで問題を解けない小学生は、有名私立中学の入試を突破することはできまい。それに小学生の鋭いツッコミに耐えられない塾講師はクビになっているだろう。
もっともっと言えば、予習――というか事前準備という発想は、社会人になったら必要不可欠の常識になる。個人的には、学校や塾の授業では予習よりも復習の方が重要だと思っている人間である(先ほどの「問題演習のショートカット」は別)。とはいえ、社会人になったら必要不可欠になる予習を、教育の場という閉鎖空間でのみ「病」として捉える発想は、果たして健全と言えるのか。
もっともっともっと言えば、本書の冒頭では「予習」について書かれているが、途中から「学力の低下した日本」といったように議論が拡散していく。
二重三重に、もやっとした読後感がまとわりつく本である。