マイク・レズニック『キリンヤガ』

アフリカのキクユ族のために設立されたユートピア小惑星・キリンヤガで、西洋文明が侵略・浸食する前のキクユ族の暮らしを頑に、そして孤独に守ろうとするムンドゥムグ(祈祷師)の老人の戦いを描いたSF小説。

各章は短編から中編だが、それぞれが一筋縄では行かない両義的(アンビバレント)なテーマを設定している上、各章が連なって全体としてひとつの長編になっており、非常に厚みのある作品である。あまり語るとネタバレになって面白くないが、この本の奥深さを感じてもらうため、本書の裏表紙やプロローグだけでもわかる設定(あるいは容易に想像がつく設定)を少しだけ紹介したい。

  • キクユ族の生活様式や精神は、もちろん西洋文明がキクユ族の文明を侵略・浸食したため危機に瀕したわけだが、このユートピアとしてのキリンヤガは、他ならぬ西洋文明が高度に発展したために初めて設立可能となったものである。
  • したがって西洋的な科学文明を徹底的に排除して(西洋文明の言葉で書くと)前近代的なユートピアの暮らしを守るムンドゥムグの主人公は、ケンブリッジとイェールで博士号を取ったエリートであるばかりか、キリンヤガを運営するために英語やコンピュータの使い手でもある。しかしだからこそ過酷なキリンヤガ設立の闘争を戦い抜き、今も西洋文明の流入を排除して自分たちの理想を守ることができている。
  • キリンヤガに住む人々は、自分たちとは違う「西洋的な科学文明」が存在することは知っている。
  • そもそもユートピアという言葉・概念は他ならぬ西洋文明で生まれたものである。(単なる屁理屈だと思うなかれ。西洋文明・科学文明の徹底排除という理念とこれは明確に対立するのである。かなりナイーブな問題だと俺は思う。)

予備情報を持ち過ぎない方が良いのでこれくらいにしておくが、もう少し付け加えるなら、最も難しいと俺が思っているのは、このユートピア「キリンヤガ」で求められるのは、未だ実現されていないユートピアを目指して成長することではなく、かつて存在した(と信じられている)キクユ族によるキクユ族のためだけの「ユートピア」を目指すことである。それを目指すために、キクユ族の人々は様々な物事から目をつぶり、後退し、現状を維持し続けなければならない。未来ではなく過去を見続けなければならないのである。まさにカギカッコ付きの、実に危ういユートピアではないか。

しかし文化・文明というものは、人々がモノを考えたり工夫したりする限り、仮に西洋文明が侵略・浸食しなくても内発的に変遷・発展するものである。そして時には他の文化圏・文明圏の影響を受けていくものなのである。日本文化もそうだったし、キクユ族だってマサイ族やカンバ族やルオ族と全く没交渉だった訳ではない。仮に友好的な交流がなかったとしても、戦闘状態があったこともある。そしてたとえ表面的に没交渉だった時期であっても、その存在を認知し、意識し、時に脅威することが、確実にキクユ族の暮らしに影響を与えていたであろうことは疑いない。

本書は、こうした文化・文明をめぐる諸問題が極上のSFエンターテイメントとして奔流のように読者の頭の中にブチ込まれていく。その中で読者は、主人公の苦い思いや孤独やドン・キホーテ的な滑稽さを常に感じずにはいられない。もちろん主人公の頑さにイライラすることもあるだろう。とにかく大プッシュの必読小説である!

余談

本書は相当な数のSF文学賞の受賞ないし候補となったようだが、著者は作者あとがきで「わたしは世界でもっとも謙虚で控えめな男というわけではない」として、当初は短編ないし中編として発表された本書の各章に寄せられた「数々の栄誉」を大喜びで7〜8ページもかけて整理している。俺はこういう小説家も好きなので楽しく読んだが、客観的にはいささか「やり過ぎ」という気もする。訳者も訳者あとがきでこんな風に書いている。

さて、本書の成立にまつわる事情については、レズニック自身のあとがきにもくわしく述べられていますが、作者がうれしそうにならびたてているさまざまな賞については、あまりなじみのないものも(以下略)

「うれしそうにならびたてている」という表現に、思わずニヤリとしてしまった。そりゃあ7〜8ページも自慢話の翻訳をさせられたら、愚痴のひとつもこぼしたくなるだろう。