沢木耕太郎『テロルの決算』

テロルの決算 (文春文庫)

テロルの決算 (文春文庫)

反共主義者のテロリストとして短い生涯を閉じた右翼・山口二矢(やまぐちおとや)の生涯を、彼に殺された日本社会党党首である左翼・浅沼稲次郎と対比させながら描いたノンフィクションの金字塔。
政治的主張のために暴力に訴える「テロ」という主義や主張は、多くの人間には理解できないものであろう。とりわけ殺人については……。私も同感である。しかしそれは「暴力は良くない」「殺人は良くない」という情緒的な倫理観からのみではない。
山口二矢は自殺後に右翼から英雄視されたそうだが、そんな馬鹿なと思う。山口二矢は犯行当時まだ17歳であった。色々なことを考え、学んでいた。これからもそうなるはずだった。山口二矢が本当に英雄なら、生きていれば(それが日本社会にとって良いことかどうかは横に置いておくが)もっと大きなことを成したかもしれない。21世紀まで生きていれば、閉塞状況に陥る日韓関係に、ここまで悪化する前に何らかの手を打てたかもしれない。けれど彼は一人一殺という甘美だが何も生み出さない思考停止の隘路にハマり、老い先短い「ほどほどの大物の」左翼と人生を交換したのである。
彼は結局、子供だったのだと思う。未熟だったのだと思う。社会や理想について多くを考え、自分の器では扱い切れないほど大きなことを考え、その大きさと自分の能力のギャップに苦しんだ。典型的な思春期の若者としか言いようがない。本書によれば、礼儀正しく理知的な面を持った若者だとされているが、礼儀はともかく理知の面ではどうだったか?
まあ本書は、右翼・山口二矢と左翼・浅沼稲次郎のいずれの人生に肩入れしながら読むかで、感想も変わってくるだろう。私は、どちらにも肩入れできなかった。一人一殺という甘えた非生産的志向に陶酔した山口二矢も、無能だが実直な調整型の政治家の浅沼稲次郎にも……。むしろ強く感じたのは、本書を読みながら、政治思想や主義ではなく、何となく「年齢」で踏み絵がされているような気持ちがしたということである。子供の山口二矢と大人の浅沼稲次郎、いずれの生き方を支持するのか、と……。
なお私は今年に入ってから沢木耕太郎の書籍を(概ね)時系列で読んでいるが、本書が出版されたのは1978年であり、本書も「初期」の作品に含まれるだろう。しかし若書きという感じは全くない。旺盛な取材力とそれらをまとめた見事な構成力には舌を巻く。