地方レベルは地元の名士が既得権益として世襲しているし、国会議員も正直そこらへんの阿呆よりも馬鹿な人間が政治家になってしまうという珍事が続出してもはや珍事とは呼べなくなっている。国の代表に至っては、馬鹿の中で切磋琢磨して少しでも優秀な人間が総理・党首・大臣クラスになるならまだしも、馬鹿が権力を持った馬鹿として君臨し、別段優秀でないのに上に立ったりすることが多々ある。新しい風を!などと言って選挙や組閣のたびに新味を出そうとするがそれは大抵「女性」か「タレント」である。タレントはまだしも、未だに性別で多様性をアピールするなど有権者を馬鹿にするにもほどがある。馬鹿が愚民を馬鹿にするのは非常に腹立たしいので、自民党を積極的に指示する人は田舎者ばかりで、他に候補がいればもう与党は嫌だと代わりを選ぼうと思う人は多いと思う。しかしながら野党は、控えめに言って与党と同等の馬鹿である。それはそうだ、野党だって与党と同等のメカニズムで集められた馬鹿の集まりで、彼らには地方組織がないから草の根で愚民のニーズを吸い上げることすら十分にできていない。政権運営の経験がある馬鹿を諦めて、経験がなくニーズも知らない馬鹿を選ぶのは大変な勇気を必要とするので、日本では政権交代が滅多に起こらない。
……政治体制についてはわたしも他の多くの方々と同程度には不満を持っているため、この百倍程度は楽に書けるが、キリがないのでこのぐらいにしておこう。上のパラグラフはただの愚痴なので全て取っ払って冒頭の言葉を繰り返すが、代表制民主主義は全く有効に機能していないのだ。特に日本では……と言いたいが、トランプが選ばれるアメリカや、極右政党の台頭や訳わかんない連立政権が幾つも出来ているヨーロッパも、同様の問題を抱えているだろう。この何年か、わたしは素人ながら数年来この問題を考えているが、やはり有権者の意思を反映する投票制度、ひいては政治体制そのものに問題があるのだと思う。
投票制度については先日読んだ『「決め方」の経済学』や、同じ著者の『多数決を疑う 社会選択理論とは何か』を読むと良い。感想も書いているので、以下のリンクを辿れば投票制度についてどんな問題点やソリューションがあるかの概略を掴むことはできるだろう。
一方、狭義の投票制度を超えた、代表制民主主義そのものに問題があるという見方もできる。すなわち、国の代表をやりたいと希望する猿を選挙で(つまり人気取りの競争によって)選び、その後、我々の選んだ猿が、予め裏で握っていた他の猿どもと群れを作って群れのボス猿を選び、群れ同氏で勢力争いをして猿山全体のボス猿を決めるという仕組みに問題があるのではないかという見方だ。そして、そうした「代表制民主主義」という破綻した民主主義形態を乗り越えるひとつのアイデアが「くじ引き民主主義」なのである。
さて、本書で書かれていた「くじ引き民主主義」の定義をここらで引用しておこう。
くじ引き民主主義とは、地域の市民や住民、場合によっては国民から無作為抽出(母集団を代表するサンプル抽出)で代議員や委員を選び、特定の課題や目的を達成するにはどうしたらよいのかを話し合い、その上で意思表明や決定をしてもらう仕組みのことだ。これは、前章でみた選挙によって代表を選び、彼らが共同体に関わることを決定する代表制民主主義とは対称的な民主主義の形だ。ここで注意してほしいのは「くじ引き」といっても、単にでたらめに人を選ぶわけではなく、幅広い母集団から、その地域や国の人口構成を再現するように抽出されることだ。
わたしは『くじ引き民主主義』という書名を見た当初、何かのジョークか極論、パロディ、悪ふざけの類なのではないかと思った。しかしくじ引き民主主義という名前が何となく軽薄でふざけた印象を与えるものの、上記の定義を読みながら冷静に考えると、くじ引き民主主義は必ずしも奇をてらったものでも珍妙なものでもないことがわかる。まず、古代ギリシャではアゴラ(広場)に数千人の市民が集まって月に数回の討議と採決を行っていたが(これを民会と呼ぶ)、これを高校や予備校の世界史では直接民主主義(代表者を介さずに所属する共同体の意思決定に直接参加し、その意思を反映させる政治制度または思想)と呼ぶと学んだと思う。しかし本書によれば、民会で承認された提案を執行するのは「500人評議会」と呼ばれる人たちで、このメンバーは各地の10部族からくじで選ばれたそうだ。以下のWikipediaでも「政治参加資格のある自由市民が直接議論して決定し、役職は抽選で選出された」とある。
またアメリカの陪審員制度などを参考に日本でも2009年に始まった「裁判員制度」は、満20歳以上の国民から無作為に選ばれた裁判員が、裁判官と共に審理に参加する日本の司法・裁判制度であるが、これも厳密な定義はさておき大まかにはくじ引きと同義であると言って良い。
本書によれば、1980〜1990年代にはくじ引き民主主義は僅少だったそうだが、2010年頃から国内外で急速に広がっている。また、くじ引き民主主義が用いられる対称も自治体レベルのミクロなものから、具体的な政策決定や、憲法や党首選びなど政治体制に関わるマクロなものまで多岐に渡る。OECD(経済協力開発機構)の『革新的な市民参加と新しい民主的制度』という報告書では、くじ引き民主主義を「代表制熟議プロセス」と呼び、その特徴に応じて4つの種類に分類している。
- 政策について熟議による市民による決議・市民への諮問
- 市民会議(アイルランド、カナダ)
- 市民パネル(オーストリア、ベルギー、フランス、ポーランド、イギリス、アメリカ等)
- コンセンサス会議(オーストリア、デンマーク、フランス、ノルウェー、イギリス)
- 計画細胞(ドイツ、日本)
- 政策についての市民の意見表明
- G1000(ベルギー、オランダ、スペイン)
- 市民評議会(オーストリア、ドイツ)
- 市民対話(各国)
- 討論型世論調査(アルゼンチン、イタリア、日本、韓国、モンゴル等)
- 世界規模意見(World Wide Views)(各国)
- 特定の政策・法律についての市民の意見表明
- 市民イニシアチブ評価(アメリカ)
- 常設の諮問評議会
- 東ベルギーモデル(ベルギー)
- 市民評議会(スペイン)
これらを著者なりに、もう少しシンプルに整理すると、以下のようになる。
- 決定権を持つもの
- 諮問されて意見を表明するもの
- 課題や状況に応じてその都度組織されるもの
つまりくじ引き民主主義を導入するからと言って、いきなり既存の政治体制を全廃するわけではなく、現実的には、今の代表制民主主義とどうミックスするかという話になるだろう。くじ引き民主主義の場合、確率論的には、ごく純粋に、今の日本の世論(思想・能力・感情など)が抽出される。それは限界であると同時に、希望でもある。今の政治家たちの言動は、与党も野党も、日本の有権者の世論を反映しているとは言えないからだ。
そもそも今の政治家は、政治オタクであり、理想主義者であるか拝金主義者であるかその両方であり、更に重要なことに職業政治家であるためその地位に保守的であり、よって権力志向になったり権力に屈したり官僚に遠慮したり有権者におもねったりする。それがリーダーたる資質なんだと言えば聞こえは良いが、その実、Twitterやはてなでイキってる政治オタクや陰謀論者どころか、ワイドショーを見てワーワー言っているおばちゃんにすら負けていたりする。その結果、例えば「公文書改竄」といった問題に与党政治家はだんまりで、野党政治家は表面的には口酸っぱく罵るが本気で変えようとはしない(自分が与党になったときに困るからね)。
そう考えると、くじで何百人 or 何千人か選ばれた人たちが、経済・国防・ダイバーシティなどに分かれて官僚と国造りを担うというのは、今よりよほど「まとも」な気がすると思うのはわたしだけだろうか?