岸見一郎+古賀史健『幸せになる勇気』

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
本書は、日本ではほとんど知られていないアドラー心理学を紹介してベストセラーになった『嫌われる勇気』の続編である。

本書の主人公である「青年」は、かつて人生に悩んで「哲人」の元を何度も訪れ、アドラー心理学の薫陶を受ける。それが3年前……『嫌われる勇気』における話だ。そして3年後の現在、「青年」はもう一度「哲人」の元を訪れる決意をする。理想論ばかりで何の役にも立たないアドラー心理学を打ち捨てるために……。本書における「青年」は3年前とは違い、アドラー心理学のことは既に知っている。それどころか深い感銘を受け、実践しようとした。しかし失敗し、アドラーと決別しようと考えたのである。内容的には前作と重複するところもあるが、表面的な言葉で「青年」の心を再び揺さぶることはできない。必然、より深いところまで議論をしていくことになる。

本書も相当に素晴らしい内容で、わたしはこれから何度も読み返すことになるだろう。しかしアドラーに触れたことのない方は、あるいは最近『嫌われる勇気』を読み返していない方は、ぜひ『嫌われる勇気』を再度読み返してから、本書を読まれることをおすすめする。

参考までに、わたしが『嫌われる勇気』を読んだ時の感想の一部も以下に載せておこう。

アドラー心理学は過去の苦痛や周囲の環境が原因となって今の自分が作られているという「原因論」を明確に否定する。つまり「トラウマ」を明確に否定する。代わりに採用するのが、自分がこうありたいから、こうあるために、過去の事実を利用していく「目的論」である。過去いじめられたから現在の自分が他人と上手く付き合えないのではなく、他人と深いコミュニケーションを取りたくないから過去のいじめの経験を持ち出していると整理するのが「目的論」だ。


これは「トラウマ」や「コンプレックス」や「生い立ちの不幸」を自認している方にとっては大きな衝撃だろう。そして簡単には受け入れ難いものである。これを簡単に受け入れてしまえば、苦しんできた自分は一体何だったのだということになってしまう。しかし「ここ」をスタートにしなければ、「自分」は変わらない、「人生」は変わらないのだとアドラーは説く。アドラーは、あなたは「今」から変われると説くが、決して「簡単に」変われるとは言っていないのである。


私も、本書を読みながら、アドラー心理学の主張を必ずしも百パーセント受け入れたとは言えないことを告白しておこう。アドラー心理学は劇薬である。表面的に理解した振りをするのは簡単だが、心の底から受け入れるのは、それほど簡単ではない。誰しも多かれ少なかれ、他人には言えないトラウマやコンプレックスがあるのではないかと推察する。私にもある。


具体的に言及しよう。他人に言えるレベルのものとして、私には「大学院の中退」というコンプレックスがあった。自分は研究者としてそれなりに有能ではないかと思い、研究によって社会にインパクトを与えられるのではないかと妄想し、しかし自分には研究生活に対して才能も意欲もないことを知って中退した。自分としてはそれなりに苦しんだ末に選んだ結論だが、周囲からは相当に責められた。それ以上に就職活動の時には極めて制限のある中で就職活動を行う羽目になった。私はストレートに社会人入りした人々から3年遅れて社会人入りしたが、その時の私は、中退した時を超える黒い炎に包まれていたと思う。自分を採用した会社に対する恩返しといった前向きな気持ちは正直なかった。「中退」「既卒」「挫折者」「落伍者」とレッテルを貼り私を無能扱いした社会に対して、そのレッテルが間違っていたことを証明するための戦いである。自身が猛烈に修羅場を経験して、猛烈に結果を出すことで、見返してやろうと思っていたのである。そう、それはいわば「復讐」である。私はその後、勤務先の同僚はもちろん、他の多くの社会人たちも「中退」とか「既卒」ということは、一部の伝統的大企業を除けばほとんど誰も気にしていないことを知り、また自分自身が仕事で奮闘し、大卒ストレートで社会人入りした同年代の人々と同等以上の能力や成果を出せたと感じることで、その黒い炎はだんだんと消え去っていった。いわばトラウマやコンプレックスを乗り越えたのである。


……という上記の自己認識は、全て原因論的な語りである。


アドラーによれば、私は中退・既卒によって受けた傷に苦しみ、それを猛烈に働いてトラウマを乗り越えたのではなく、私自身が奮闘するための材料として中退・既卒という「トラウマ」を持ち出したということになる。


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