村上龍『すべての男は消耗品である。 VOL.7:2001年4月~2003年4月 9.11』

すべての男は消耗品である。VOL.7: 2001年4月?2003年4月 9.11

すべての男は消耗品である。VOL.7: 2001年4月?2003年4月 9.11

村上龍が長年書いているエッセイシリーズ。これまで敬して遠ざけてきたが、電子書籍化されているのを知り、まとめて読んでいる最中。

9.11以来、村上龍はしばらくの間、9.11の情勢を踏まえた日本や日本人・日本社会についての論考を展開している。その中でも興味深いと思ったのは、以下の下りである。

あの同時多発テロは日本の現実を分断した。90年代を通してずっと問われ続けていた日本の問題を曖昧にした。具体的に言うと、経済構造改革、ひきこもりやドメスティックバイオレンスなどの社会的な問題、親子や夫婦や家族の問題などが、テロによって一瞬どうでもいいことのように錯覚されてしまうことになった。

率直に言って、日本は何かあると熱狂的なまでにひとつの物事に盛り上がり、そしてある時期を過ぎるとあっさりと興味を失ったり、手の平を返して批判したりする。さらに言うと、日本が何に熱狂するのかは、わたしのような人間にはほとんど理解不可能である。しかしある程度絞り込むことは可能で、80%以上の確率で、本当にどうでも良いことで熱狂している。

例えば、どこそこの川にラッコが現れたとか老舗ブランドの二代目争いで兄弟が喧嘩をしているとか、その程度のニュースとも言えないニュースで本当に数週間はワイワイやっている。事件報道も、本当に価値のある報道をする番組やコメンテーターなど天然記念物並に貴重で、まず大抵は下らない。必ずやるのは、殺人事件の加害者家族や被害者家族にとりあえず話を聞きに行って日常をぐちゃぐちゃにすることだが、少なくともわたしは加害者だろうが被害者だろうが家族に話を聞きに行って何か意味のある示唆を得られたワイドショーにお目にかかったことはほとんどない。マスコミなんて本当に人間の屑である。そして次にやるのが、加害者や被害者の人となりをとりあえずアレコレ聞いて回るという、これまた迷惑千万の愚行だ。そして加害者や被害者が普通っぽい人間なら「そのような人間でありながら、なぜこんなことになってしまったのか」と神妙な顔をしてみせ、逆にトラブルメーカーなら「なぜ予兆があったのにこんなことになってしまったのか」とやはり神妙な顔をしてみせるのだ。最後に絶対忘れてはならないのが卒業アルバムである。小学生や中学生が先生に言われて書いただけの作文など大抵ろくなものではないのだが、この辺はほとんど伝統芸能のようなもので、たとえ何を書いていても、それなりに神妙な顔と何となく意味ありげなコメントができなければワイドショーのコメンテーターとしては半人前である。

さて、国民がこれだけ下らないのだから、国民の代表たる政治家はそれに輪をかけて下らないことが大好きである。大臣がカツカレーを食べたとかバーでワインを飲んだとか靴が何万円であるとか本当にどうでも良いことで数ヶ月は熱狂している。おまけに「漢字を読めるか」とか「カップラーメンの値段を知っているか」といった質問を大臣にするといった狂った政治家までいる。それをワイドショーは批判するどころか、喜々としてテロップを作って熱狂的に報道しているのだから、教養の低さは本当に笑ってしまう。そうそう、何日か前に発生した地震は大阪府北部が震源地で、わたしの地元である高槻市や、高校のあった茨木市、友人のいた枚方市などは震度6弱と大きな震度を記録したのだが、元大阪府知事の太田房江は「大阪は、府も市も、国土強靱(きょうじん)化をさぼっています」「追及するいいチャンスですよ」とTwitterで投稿し、後に「誤解を招く発言だった」と取り消すという騒動もあった。誤解も何も、これを読んだ全ての人間は太田房江の真意を正しく理解したはずで、それは「この度の地震は太田房江にとって「いいチャンス」の出来事だったということであり、ひいては「国民の安全よりも政局が大事」ということである。意図が正しく伝わっているのに誤解を招いたというテンプレで謝罪するのがまず言語道断だし、国民の識字能力を馬鹿にしているという点でも非常に腹立たしい。

……これぐらいにしておこう。ブログが終わらない。話を元に戻すと、このように下らないことでばかり熱狂する国民の前に、本当に重大なことが起こったらどうなるだろう……というのが、先ほどの村上龍の発言である。

確かに国民は熱狂はした。9.11という問題を下らないことだと考える馬鹿は少数だった。しかし残念ながら9.11に全てを持って行かれてしまい、他のことが「どうでもいいこと」になってしまった。

日本人は知的キャパシティが低いのだろうか。

情緒的すぎて本質で議論できないということもあるかもしれない。

誤解してほしくないのは、9.11が重要ではなかったということではない。重要なことにフォーカスしてほしいということと、重要なことはひとつではないということである。

余談1

わたしも当時のことを未だに覚えているが、9.11はやはり世界を変えたと思う。わたしも関心を持って幾つかの本を読み、その中の幾つかは今でも何度となく読み返している。
incubator.hatenablog.com
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余談2

その意味では、最近の森友学園だの公文書偽造だのは、本当にどうでも良いと思う。本当にどうでも良いと思っているので情報はほとんどシャットアウトしているが、それでもたまに情報が入ってきて、そのたびにどうでも良いと思ってしまう。これで安倍を批判している人々は大きく2種類いる。しつこくやればボロを出すんじゃないかという淡い期待で特段の視座もなく安倍を追及し続けている集団と、安倍は何らの法律違反を犯していないけれども何らかの責任を取らせたいという集団だ。どちらの問題も大変な時間の浪費なのだが、まず前者については、もはや時間の無駄だから司法の場で問題を解決するようにしてほしい。1年以上も追及して未だに違法行為があることを証明できていないのだから。というか実のところ、安倍が直接不正指示をしていないことはほぼ明確になっている。それをわかっているのに、未だに批判している批判者がいる。それが後者である。罪を犯していないのに何を問題視して何の責任を取らせようとしているのだろうか。友達であることの責任か?

まず、森友学園問題についてだが、こちらはもう安倍が何故糾弾され続けているのかほとんどわからない。直接不正指示をしていないことが、追求すればするほど明確になっている。

次に、公文書偽造について、これは確かに問題としては大きく、そして根深い。しかし、繰り返すが、それならばなぜ捜査の素人である政治家集団がそれを追及しているのかと思う。はてなブックマークを見ていても、「民主主義の根幹が云々」という決まり文句がよく出ているのだが、本当にそうなら、国会とは別のところで、それこそ司法の場に舞台を移し、そこで存分にやればいいのにと思う。捜査の素人である(しかも大半が無能揃いである)野党の政治家が1年以上もかけてチンタラ追求するのではなく、直ちに司法の場で白黒つけるべきである。また、空気と多数決で断罪するという日本人の性質を最大発揮したいだけなのであれば、国会ではなくワイドショーで十分なのだ。

そもそも安倍そのものの責任という意味では、やはり何の責任なのかがよくわからない。任命責任だの組織責任だのと言うが、官僚とは一定の公正なルールに基づいて資格試験を突破した人間で構成した組織だろう。そして官僚にも人事部はある。官僚が犯した罪の責任は官僚組織の上位者が取るのが原則である。ただし今回は(未だに証明されていないのだが)政府から圧力があったとか忖度があったとかで、しかも圧力ならともかく忖度って結局何もしていないことだよねということで正直よくわからのだがとりあえず世間を騒がせたという日本的発想で麻生副総理が責任を取った。なのに安倍が未だに罪を問われ続けている。いや、罪はないのだが、道義的責任を忖度して辞めろということである。意味不明だ。

誤解してほしくないのは、わたしは経済政策などを勘案して消極的に安倍支持者であるが、別に安倍を好きではないということである。まともな野党がいないこと、まともな野党がいないのにとりあえずの空気で政権交代させて民主党政権になったことで、より無能な集団による統治が行われた過去を知っているというだけである。与野党含め、こんな人たちに自分の収入から多額の税金を払っていると思うと、本当に口惜しい。