中西裕人『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』

孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス

孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス

去年、村上春樹の極私的傑作エッセイ『雨天炎天』を再読して以降、図書館を活用して聖山アトス関連の書籍を片っ端から読んでみたのだが、日本人の書いたアトス関連の書籍は本書でだいたい全部読んだかな。*1

さて本題に入るが、結局のところ、聖山アトスというところは「聖地」なのである。

「何を当たり前なことを」ということを改めて書いてしまったが、聖地を読み解くのはそう簡単なことではないということをわたしは言いたいのである。

当初は、アトスでの暮らしを「21世紀とは思えない暮らしぶり」と書いてみたのだが、よく考えると21世紀だけでなく過去のいつ時点にもこんな暮らしは一般的ではなかった。しかも2019年現在は、500年前や1000年前のように宗教が大きな力を持っていた時代ではなく、また物資不足や身分制度から死後や来世に期待する思想が一般的だった時代でもなく、飢饉による餓死がポコポコ発生していた時代でもない。アフリカなどの一部地域を除き貧乏人ほどカロリー過多で成人病が多発し、遊牧民がGPSで自宅を探し、マサイ人が「ビジネス」としてマサイのライフスタイルを継続し、スラム街や熱帯雨林の部族の子供ですらスマホを持ち、サッカーでもマフィアでも革命でもなくアプリ開発で一発逆転を狙う時代、それが2019年という時代のスタンダードと言って良い。そのような中、現世を「祈り」と「祈りとしての労働」の2つだけに絞り込んだ生き方を「敢えて」選び取った特別な人たちが集う特別な土地、それがアトスなのである。

そんな尋常ではない・・・・特殊性を持つアトスについて、ほんとうに何かを知ろうとするならば、こちらとしてもいささか意識的なアプローチが必要になると思う。

まずひとつは、やはり写真や映像をふんだんに使ったものが良いだろう。凡庸な描写能力の書き手が何を書いたところで、カタログ以上のものは見えてこない。百聞は一見に如かずというわけである。本当はドキュメンタリー番組のようなものがあれば良いと思ったのだが、残念ながら見つからなかった。本書は映像ではないものの、写真自体が非常に美しく、ぜひ手に取ってみてほしい。

次に、よくわかりもしないのにアトスという土地を中途半端に礼賛したり拒絶したりしていない本である。わたしは村上春樹の『雨天炎天』を推す。ちょっとしたユーモアもあり、アトスという土地の異質さとそれに対する違和感を率直に表明しつつも、拒絶はせず、そんな世界があっても良いよねと存在を受け入れている。読みやすく、入門書としても良いと思った。

最後に、アトスに対して並々ならぬ執着を示している人間により解説されている本である。まあアトスというマニアックな対象について本を書いている時点で皆ある程度は執着があると思うのだが、わたしは生き方そのものをそれに捧げたようなシンボリックな存在を指している。例えばエジプトのピラミッドにおける吉村作治がその典型だ。こういう人には良し悪し含めて注目が集まるのだが、今のところ日本語では、このような人は見つけられなかった。ただ、本書の著者はそれに近いと言えなくもない。著者は御茶ノ水のニコライ堂で洗礼を受けているが、これは大人になってから、またアトスを意識し始めてからである。アトスのために洗礼を受けたわけではないが、アトスを訪れてみたい気持ちがあったこと、そして写真家としてアトスという地をフィルムに残してみたいという野心があったことを、著者は正直に吐露している。わたしはそういう職業的野心というものを全面的に肯定する。それに1回や2回ではなく、何度となくアトスを訪れ、アトスの様々な面を写真や文章に落としてくれている。

本書はけっこう高いため、図書館で借りて読んだのだが、結局注文してしまった。村上春樹の『雨天炎天』と並び、本棚に死ぬまで残る本になるような気もする。

*1:正確には久松英二という人の書いた『祈りの心身技法』という本もあるのだが、これは神学のかなり本格的な専門書で挫折した。14世紀のアトス静寂主義というムーブメントについて解説した本で、教義だけでなく身体性から宗教や信仰を捉えてみようという本であり、キリスト教がヨーガや禅に通底するとすら思わせる言及である。素人目にも非常にチャレンジングな試みの本だと思ったのだが、いかんせん難しく、図書館のレンタル期限が来て返却してしまった。あとは、翻訳書で『シルワンの手記 : 聖山アトスの修道者』と『アトスからの言葉』という2冊の本があるのも認識しているが、古くて入手が難しいのと、あかし書房という出版社から出ているかなり本格的な宗教書のように感じたので、今のところ読んでいない。この辺を踏まえて「だいたい全部」ということになる。