あいあおい『「これが書けたら死んでもいい」と思える小説のつくりかた』

本書は個人出版の電子書籍なのだが、本書は非常に構造的な書かれ方をしており、昨日読んだ、RJラボ『エッセイの書き方 公募で賞が獲れるおもしろい文章の秘密』と対象的である。

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まず、「はじめに」の冒頭部分を少し引用したい。

「金にもならない、誰に見せるわけでもない、役立つ資格につながるわけでもないのに、なんでアンタは小説なんか書いているの」と尋ねられる時、私はいつも答えに窮する。
 確かに言われる通りなのだ。
 私はこれまで人生の時間の大部分を、小説を書くことに費やしてきた。だが、それで何か得をしたかと思い返しても、そんな記憶はひとつもない。いや、もしかしたら損をしてきたかもしれない。(略)
 私は仕方無しにこう答える。
「これはもう……生理現象です。トイレに行ったり、眠くなったり、性欲がたかまったりするのとおんなじで、書かずにはいられないんです」
「そんなに書きたいことがあるんですか?」
「いや、そういうわけでもないんですが……」
 何とか答えを捻り出しても、すぐまた別の何かを問われてしまえば、また答えに窮してしまう。
 おそらく、小説執筆を趣味にしている人の多くは、右と同じ状況を幾度も経験していることだと思う。
 なぜ、人は小説を書くのか。
 プロの作家が生活を維持するためにストーリーをこねくり回して編み上げる、いわゆる「売るための執筆」とは別に、個々人が趣味として綴る「自分のための」小説というものが存在し、しかもその多くが日の目を見ず、また、日の目を見るつもりもなく、何百何千と生まれ、人知れず消えてゆく。(略)
 私はこれまで、下手の横好きでいくつかの小説を書き上げてきた。(略)時折過去の物を引っ張り出して読み返す。すると(略)「おお」と感慨深くなることがひとつある。
「ああ、この頃はこんなことを考えていたのか」という自分への気づきだ。
 (略)自分が自分の歴史の時々に何を感じ、何を考えて生きてきたのかよく分かる。それは日記やブログといった日々録では残せない、もっと精神的な年表として、改めて自分の眼前に広がってくる。
 このように振り返ると、小説は「自分の年表」を作るために執筆されているように思われるが、面白いことに、個々の作品を創作する時に、「自分の年表」を作るために書こうなんて思ったことは、一度もない。

著者の狙いは明確だ。小説や物語を個人的に愛してきた方が、文学賞だのデビューだのの前に、まず自分のために小説を趣味的に書いてみたいというニーズに応えたいという思いがビンビン伝わってくる。

そして章立ても「はじめに」の後、「企画」「構成」「執筆」「演出」「推敲」という、読み手の実作ステップに沿ったアドバイスになっている。この本を読みながら鉛筆を走らせれば(あるいはキーボードをカタカタ打ち込んでいけば)、曲がりなりにも小説が書けるだろう、という構成である。

細かな内容は好き嫌いがあると思うし、Kindle unlimitedだと無料で読めるので、深くは書かないが、上記のようなニーズがある方は一読の価値はあると思う。