野内良三『レトリックと認識』

「レトリック」とは「修辞」である。もっとわかりやすく言えば「技巧」であろうか。同じことを言うのであっても、その“言い方”によって相手への伝わり方や相手の受け取り方は千差万別であり、普通に言うのと比喩を用いて言うのでは、それを聞いた印象は異なる。これが俺のレトリックの理解であるが、このような「レトリックによって相手の受け取り方は千差万別になりまっせ」というのは古典レトリック的な考えなのだそうだ。現代レトリックでは、その一歩先を見据えて論を展開していくらしい。ということで、少し引用する。

レトリックは世界をどう「表現する」かに関わるだけでなく、世界をどう「読む」かに関わる営みである。古典レトリックは話し手=書き手の立場が優先していた。いかにうまく話すか、いかにうまく書くか、それが中心的な関心だった。無論それも大事な問題ではあるが、聞き手=読み手の視点もそれに劣らず大切だ。現代レトリックは「世界/テキストを読む」認識者の立場を強調する。想像力を羽ばたかせると、この世界の事物間には思いもかけなかったような関係が結ばれることになる。それは新しいものの見方に通じる。

つまり相手に与える印象ばかりを問題にするのではなく、自らがどのように「世界」を見るのかを現代レトリックでは重要視しているらしい。「そもそもレトリックとは何ぞや」というレトリックの根本的な問い直しのあとで、「世界」をレトリック的に捉え返してみると、果たして「世界」はどのように見えるのだろうか――というのが本書の内容である。めちゃめちゃ面白そうな内容なので、俺はかなり期待したのだが、まあ大して面白い本じゃないです。前半は教科書で後半は使用例の紹介です。

ところで「婉曲」とは「ぼかして言う」ことであるが、この「婉曲」に関しての記述が面白かったので紹介。例えば、病院で腸の手術をしたあとには「おなら」がちゃんと出るかどうかが大問題なのであるが、看護婦さんは決して「おなら」が出たかとは尋ねず、「ガス」が出たかと尋ねる。「おなら」とは「ガス」の一種であり、「ガス」と一般化して言うことで、キツくない表現にしているのだ。このように、そのものを直接言葉にせず、一般化して言うことで、ぼかされたキツくない表現に普通は変わるのである。

だが、何故か一般化の度が過ぎると――つまり一般化しすぎると、ぼかしたはずなのに、逆にキツい表現に変わってしまう。「アレ」「やる」「ナニ」は、めちゃめちゃ一般化しているのに、何故だか、めちゃめちゃ卑猥な表現になってしまうのである。う〜ん、面白い。