石原千秋『大学生の論文執筆法』

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)

石原千秋の著書は、当ブログを検索していただければ一目でわかるように、個人的にはかなり耽溺している。しかし本書は、どうにも説教くさくて好きになれなかった。たとえば、俺に言わせれば、本を買おうが借りようが先輩から譲り受けようが、そんなもの学生の好きにさせろという感じである。俺自身は、確かに身銭――いや、血銭を切って本を購入し続け、読み続けたクチである。目に付いた本はとにかく買い、積読(つんどく)のまま結局ブックオフに売られた本も1000冊は優に超える。そして確かに著者の言うように積読にもそれなりの効果はあったように思う。しかしそれは別に誰かに言われてやったわけではないし、誰かにアドバイスされて身銭を切ったところで何の意味があろうか? 四六時中とにかく本を貪りたいという言い尽くせぬリビドーが突き動かしてこそ意味のある「積読」だと俺は思う。
そんなこんなで本書全体のトーンには正直に言って批判的なのだが、好きな書き手だけあって、部分部分では興味深い箇所も多かった。本書の本筋とは離れるが、引用したい。

世の中には「野党は反対ばかりして、困ったものだ」などという頓珍漢なことを言う人がたまにいるが、そういう人は政治がまったくわかっていないようだ。議会制民主主義においては、原理的には野党は与党の提案事項のすべてに反対するためにある。それ以外に野党の存在理由はない。反対することで与党の提案事項の内実を明らかにして国民の関心を高め、さらには、議論を深めて提案事項の欠陥を白日の下に晒すことも、野党の重要な仕事のひとつなのである。
もちろんいつかは決着しなければならないから、そこで妥協が図られる。妥協は失敗ではなく、民主主義を成立させるためには大切な手段のひとつなのだ。こう考えれば、野党と与党との間には、決して消してはならない線があることがわかる。だから、「テーマによっては与党と協力したい」などという人間には、野党の党首の資格はない。

批判野党が政治の質を上げるという発想は俺には全然なかったので、かなり興味深く俺は受け止めた。確かにこういった面はあるかもしれない。ただ「牛歩戦術」や「野次」「暴動さながらの議会紛糾による審議の停止」「スキャンダルに乗じた終わらない個人攻撃」が、果たして野党たる努めを果たしているかは、甚だ疑問である。民主党や共産党、はたまた自民党との派閥争いで弾き出された(もう名前を覚える気もない)極小議員(極小政党)たちに「野党としての矜持」があるようには、どうしても思えない。きっと無いだろう。まあ自民党に「与党としての矜持」があるようにも見えないのが問題を一層ややこしくしているわけだけれど。結局、ここ数年来の俺の政治に対するスタンスは、以前にも紹介した村上春樹+安西水丸『村上朝日堂の逆襲』の一節に集約されることとなる。

 どうして選挙の投票をしないのかという彼ら(僕を含めて)の理由はだいたい同じである。まず第一に選択肢の質があまりにも不毛なこと、第二に現在おこなわれている選挙の内容そのものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。とくに我々の世代には例の「ストリート・ファイティング」の経験を持つ人が多いし、終始「選挙なんて欺瞞だ」とアジられてきたわけだから、年をとって落ちついてもなかなかすんなりとは投票所に行けない。政党の縦割りとは無関係に一本どっこでやってきたんだという思いもある。何をやったんだと言われると、何をやったのかほとんど覚えてないですけれど。
 もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点があって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主義の衰退だと言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケースを提供することができなかった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみに責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。

全共闘世代の村上春樹と俺とでは状況も異なるが、突き詰めると俺もやっぱり「マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの」というスタンスになってしまうのである。著者のコメントは確かに「ご立派」だが、今の議員たちの不毛な乱痴気騒ぎが、野党(あるいは与党)としての存在理由を果たし、「政治の質」を向上させていると思えたことは、残念ながら一度も無い。