鑢幹八郎『アイデンティティの心理学』

アイデンティティについての誤解

「アイデンティティ」において最も重要で、かつ誤って理解されていることは、アイデンティティが単なる自己意識の問題として浅薄に捉えられていることである。現在アイデンティティはあまりにも薄っぺらく「自分らしさ」などと誤解されていることすらある。俺の知る大学教授は「日常語に堕落してしまった」と言っているくらいだ。しかしアイデンティティとは、自分の精神力の強さによって「私は私である」「私は○○である」などと自己呈示したり思い込んだりすることによって確固たるものになるわけでは全然ない。

エリクソンが生み出した学術用語としての「アイデンティティ」とは、自分自身だけの問題として終わらせることができるような問題ではない。もしアイデンティティの問題が自分自身だけの問題であって、「私は私である」「私は○○である」と強い精神力で思うことだけで自らのアイデンティティが確証されるのなら、アイデンティティクライシスなどという言葉など発生するはずがないではないか。カルト宗教や社会運動にのめりこんでいるような人は、下手をすれば「アイデンティティが確立している」ことになってしまう。

改めて、アイデンティティとは

アイデンティティ概念とは、もっと社会的な意味合いを強く含んだ、そしてそれだけに自らの実存がかかった抜き差しならない概念だ。つまり、「私は私である」「私は○○である」と“本当に”言えるためには――アイデンティティを確固たるモノとするには、「アナタはアナタである」「アナタは○○である」と言ってくれる他者の存在が必要不可欠なのである。

このことが何を意味するか?

(あるいは)恐ろしいことに、自分ではコントロール不可能な他者による承認に、自らのアイデンティティ形成が委ねられているということなのである。

だから俺の知る大学教授などは「アイデンティティは自分では選べない」と(アイデンティティの概念を知らない人にとっては)挑発的な発言をしたりしているが、なるほど、(広い意味での)他者体験は、確かに自分では選べない。親や家庭は自分では選べないし、国だって地方だって選べない。学校のクラスのメンバーだって自分では選べない。誰かが自らのアイデンティティを確証してくれて初めてアイデンティティを確固たるものにできるのだとすれば、確かにアイデンティティとは自分で獲得することはできないのかもしれない。

でも、そうなると……アイデンティティって難しい問題だよなあ。

エリクソンについて

アイデンティティ概念を生み出したエリクソンは幼少の頃から非常に複雑な環境に身を置き、民族的・家庭的な葛藤に苦しんできた。また彼は、ついに目指す画家になることができなかったという深い挫折の体験をしている。その出自的な葛藤と才能の葛藤からエリクソンのアイデンティティ概念は生まれた。エリクソンの数奇な体験とアイデンティティ概念は切っても切り離せないそうだ。

俺の問題意識と密接にリンクしている領域だということもあるが、必読。