浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』

1989年にフランシス・フクヤマが「歴史の終わり?」という論文を発表して世界的なセンセーションを巻き起こしたらしい。歴史とは、異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史であり、したがって、そのような闘争が終われば「歴史」も終わる。そして第二次世界大戦以降の冷戦も自由主義の勝利によって終局に達した。自らの普遍性を主張するグローバルな闘争は自由主義の勝利をもって終わり、歴史も終わった。これから私たちは「歴史」の終わった後の世界を生きねばならない――というのが、「歴史の終わり?」という論文のアウトラインであろうか。

しかし、本当に「歴史」は終わり、俺らはこれからポストヒストリカルな世界を生きねばならないのか? 冷戦中は歴史の宙吊り状態であった世界の歴史が、今まさに激動し始めた、という見方も出来はしないだろうか? 「歴史」は終わったといくらレトリックを弄しても、俺らが生きている今現在は、まさしく「歴史」ではないのか? と俺なんかは色々な疑問を持ってしまう。この「歴史の終わり」を読んだ多くの人も、色々なことを否応なく感じたことだろう。そこで浅田彰が、歴史とは何か、知性とは何か、90年代とは何か、21世紀とは何か、といったことについて「歴史の終わり?」を下敷きに世界的な論客と対談を繰り広げるのが本書である。

11人の対談相手は一流である。当のフランシス・フクヤマだけではなく、サイード、ジジェク、リオタール、ボードリヤール、ポール・ヴィリリオといった(俺ですら名前くらいは知っているような)一流の思想家や知識人に加えて、「クラッシュ」の映画で有名なSF作家バラード、浅田彰と同じく日本を代表する知識人である柄谷行人など、絢爛豪華そのものである。

先の9月11日のテロ事件のことで、フランシス・フクヤマは「歴史は終わったなんて言っておきながら、ちっとも終わってなかったじゃないか! 無責任だ!」と、けっこう攻撃されたらしい。フランシス・フクヤマは「いや、まさにテロ事件こそ私の仮説の正しさの証明だ」みたいなことを言っていて、主張が理解できずヘナヘナになった。まあフランシス・フクヤマの妥当性は置いておくにしても、確かに本書は「9月11日のテロ事件」や「テロ後の世界」を考える際の必読書といっていいと思うし、現代社会を考える上での必読書でもあると思う。必読。

個人的には、ジジェクやサイードに比べて、フランシス・フクヤマの意見は少しばかり浅薄に感じたけれども、さて、どうだろうか? 自分で読んで判断してみて下さい。あと、巻末の解説の福田和也はダメダメだが、それはまあ愛敬ということで。