永井均『これがニーチェだ』

ニーチェの入門書。内容的にはかなり偏ったニーチェ解釈ではあるらしいが、内容としてはけっこう面白いというか、非常に興味深く読んだ。著者は既存のニーチェについて書かれた書物に不満があると述べる。まず1つが、ニーチェ哲学とはおよそ一般に受け入れられるような代物ではないのに、多くの人々がニーチェを世の中にとって意味のあるものや世の中の役に立つものとして捉えているという不満である。どのような意味においても役に立たないということが、ニーチェ哲学を稀に見る偉大なものにしている、らしい。そしてもう1つが、多くの人々がニーチェから問いではなく答えを受け取ってしまっているという不満である。ニーチェは巨大な問題提起者で、他の誰一人として問うことがなかった問いを独力で抉り出した人であるが、その問いに対してニーチェ自らが出した答えは概して成功していない、らしい。

俺はニーチェを本格的に読んだわけではないから、著者の解釈が正しいか俺にはわからないのだけれど、第一章の「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に対するニーチェの(あるいはニーチェを解釈した著者の)答えは非常に面白かった。(著者曰く、この問いには、ほんとうは答えがないらしいが。)

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に、どう人は答えるのだろうか?

例えば大江健三郎は、この問いを発すること自体が悪いことなんだ、と主張しているが、これこそ俺の大嫌いな答えであり、著者も嫌いらしい。この答えには、何故この問いを発すること自体が悪いことなのかの説明が全然ない。威圧的で道徳的で規範的だ。

さらに「“とにかく”そうなんだ」という答えも考えられる。倫理というものの性質を考えた場合、ここに落ち着かざるを得ないのかもしれないが、この答えで納得しないから問いを発しているのであり、やはり納得はできない。

最終的には「きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか」と相互性の原理に訴える道しかないが、この原理が道徳的原理であるがゆえに、最終的には説得力を持ち得ない。この答えには2つの応答の可能性が考えられるが、その両者に対して無力である。まず1つが「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでも構わないと思っている」という応答である。この人は生を肯定する倫理を持っていないのだから、いつ死んでも良いと思っている人に対しては、いかなる倫理も無力である。もう1つが「私や私の愛する人が殺されるのは嫌だが、でもそれがどうして私が他人を殺してはならない理由になるのかがわからない」という応答である。ここでは相互性の原理それ自体が否定されている。そして人々は、多くの場面で相互性の原理を否定して生きているのである。

要は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対しては道徳や倫理を基盤に答えを発するしかないのだが、それがことごとく説得力を持ち得ないのは、世の中の全ての言説が、道徳や倫理それ自体を問うことを禁じているからなのである。ここにニーチェは道徳の<嘘>を感じ、道徳批判を展開する。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対するニーチェの究極的な答えは、「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない――それどころか、どうしても殺したければ、相互性の原理を介入させる必要などなく、自分のために“そうするべきだ”」である。つまり、「どうしても殺したければ、殺すべきである」という答えなのである。これは確かに不道徳であるが、ニーチェは既存の嘘っぽい道徳それ自体を否定し、批判しているのである。

この解釈が正しいとするなら、確かにニーチェ哲学は一般的なものではないという著者の言葉は正しい。そして、このことがニーチェを偉大にしているという著者の言葉もまた正しいと思う。道徳それ自体に前々から胡散臭さを感じていて、思春期に本気で「何で道徳的でいなきゃならんのだ?」ということを考えていた俺のようなフトドキ者には読ませたくない、役立たない哲学である。かなりオススメ。必読。