村上龍・編『JMM VOL.9 少年犯罪と心理経済学――教育問題の新しい視点2』

『JMM VOL.8 教育における経済合理性――教育問題の新しい視点』の続編である。本書では心理経済学という学問を援用することで、少年の心と教育と合理性の関係性を再び捉え直そうとしている。

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本書では座談会も興味深いが、それ以上に3つのフリースクールの取材が興味深い。俺は「理想の教育」といった意味合いでフリースクールに注目していたのだが、現状は、やはり既存の学校に適応できない人の受け皿として必要とされている面が強いようだ。しかし、まずはそうした「受け皿としてのフリースクール」の問題がもっときちんと社会で議論されるべきなのだと思うようになった。村上龍の取材後記にも感じるところがあったので、かなり長くなるが引用してみたい。なお、(中略)と、カッコ内の言葉は、俺が付け足したものである。

 それ(村上龍が取材した3つのフリースクールに共通していること)はフリースクール内に「競争」というものがないことです。またどのフリースクールも家族的で、少人数のシェルターのような雰囲気もありました。わたしは最初、以下のような違和感を持ちました。

  1. 子どもは、家族的ではない大集団の中での民主的なルール・規律を学ぶべきではないのか。
  2. 子どもは、競争をモチベーションにするという訓練をどこかでやるべきではないのか。

 わたしが理解できていなかったのは、フリースクールを訪れる子どもたちの中には生命の危機に瀕しているようなケースが多いということです。あのまま学校に通い続けていたら自殺していたかも知れない、という子どもが大勢いました。(中略)
 わたしは、子どもは集団における競争を体験する必要があると思っていました。社会は大小さまざまな集団で構成されていて、多かれ少なかれ競争があるはずだと思っているからです。(中略)

 しかし(中略)たとえば一千人という規模の集団における「自己の確認」と「競争心」がこの先本当に必要になるのかどうか、考え方を変えなくてはいけないのではないかと思うようになりました。今後も社会から競争がなくなることはないでしょう。しかし、競争は学校で学ぶものでしょうか。

 もちろん子どもに最低限の社会的ルールを守ることを教えることは必須でしょう。しかし最低限の社会的ルールを守ることができない子どもたちは、どちらかと言えば既成の学校の中で育てられているような気もします。

最近は、大企業や知名度のある企業での勤務ではなく、SOHO的な就業形態を積極的に選ぶような人も増えている。俺の周囲でも何人かいる。現状において、大規模な集団の中で自己の抑圧や競争を学ぶことは、本当に全員に必要とされているのだろうか。村上龍の指摘はとても貴重なもので、このことはとても慎重に議論されるべきだと俺は思った。