山田詠美『蝶々の纏足・風葬の教室』

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

「蝶々の纏足」「風葬の教室」「こぎつねこん」の3つから成る短編集。「蝶々の纏足」は、親友に束縛されて窮屈な思いをしていた少女が、ボーイフレンドと出会うことで、纏足の如く自由を奪っていた親友の束縛から解放されるという物語。なぜ親友が主人公を自由にしてくれなかったのかは最後に示される。「風葬の教室」は、学校でイジメに会ってしまった転校生の少女が「軽蔑」という感情を知ることでイジメを克服、というか無化していく物語。「こぎつねこん」は読み飛ばしモード全開なのでよくわからないが、少なくとも「こぎつねこん」を除く2つの物語は、「少女」が(山田詠美にとっての)「魅力ある大人の女」へと成長・変貌を遂げていく物語として描かれている。

(本書に限らず)山田詠美の物語における主人公の多くは、自己の欲望に忠実で、コミュニケーションに自覚的・作為的である。ついでに言うと大抵セックスにも自覚的である。最初そうでなくとも、自己の欲望に忠実に、コミュニケーションに自覚的・作為的になっていく。山田詠美にとってはそうなることが大人になることであり、成長であり、主人公の周囲の「魅力ある大人」も、そのような者として描かれる。

山田詠美は(おそらくずっと)このようにコミュニケートしてきたのかもしれないし、これが魅力的な女のモデルだと思っているのだろう。しかし私は山田詠美の描く登場人物の「コミュニケーションに対する自覚性・作為性」がどうしようもなく鼻持ちならないものとして映ることがあった。私は、人が通常ここまで自覚的・作為的にコミュニケートしているとは思えないからだ。だから山田詠美の小説の大部分は、読んでいる途中で投げ出してしまう羽目になった。そして20代と30代は山田詠美の小説をほとんど手に取ることもなかった。

しかし、普段はウザったいものでしかない山田詠美の「コミュニケーションに対する自覚性・作為性」も、それが「蝶々の纏足」や「風葬の教室」のように必然性を伴って描かれ得た時は、すなわち「こうしなきゃ私は死んでしまう」ってシチュエーションをきっちりと設定できた時は、胸を絞めつけられるような息苦しさの漂う優れた物語になる。

この本は改めて読んでも面白い。おすすめ。