樺沢紫苑『学びを結果に変えるアウトプット大全』

学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

インプットだけをいくらしても駄目で、それをアウトプットすることが結果を出す秘訣である……というのが著者の明快な主張である。だから著者はメルマガをどんどん出すし、本もどんどん出すし、ブログも書く。ただし、必ずしも本を出版するとかセミナーをするとかいった大袈裟な形を取る必要はない。アウトプットには様々な形がある。「教える」とか「メモを取る」とか「速記する」とか、まあとにかく思いつく限りのアウトプットの手段とそのメリデメや留意点のようなものを書いたのが本書である。

まー、タイトルと上記の説明でほぼ本書のメリットを語り尽くしているというか、個人的にはコンセプトは面白いけれど熟読するような本ではないと思う。わたしはサラサラサラーッと読み流した。けれど、そもそもアウトプットに対して無自覚な方や、アウトプットそのものをほとんどしていない方は、熟読する価値があるかもしれない。個人的には、「なるほど、これもアウトプットとして捉えるか」という驚きがあった。アウトプット方法を80種類も定義しているからね。

さて、本書の内容をも踏まえつつ、ここでわたしの考える奥義を書きたい。

インプットとアウトプットを極限追求すると、両者の境目はなくなる。

例えば、ブログを書くということはインプットだろうか? アウトプットだろうか? 一義的にはアウトプットになるだろうが、アウトプットするためにはインプットが必要だし、アウトプットを書くことそのものが著者の書くように自身の成長を促す強烈なインプットになる。日を置いて自分の文章を眺めれば、本の内容が瞬間的に思い出され、やはり強烈なインプットになる。

もうひとつ、教えるということはインプットだろうか? アウトプットだろうか? これも一義的にはアウトプットになるだろうが、自分がわかったつもりになっていることを説明しようとした瞬間、うまく説明できないということは多々ある。それは多くの場合、教え方が下手なのではない。インプットが未熟であるからだ。頭の中で、知識の構造化がなされていないからだ。つまり教えるということは、効果的・効率的にインプットを進めるための方法論でもある。なお、友達同士で問題を出し合ったり教え合ったりする行為は「相互教授法」といい、実は極めて有効な学習手段であることが学習理論では明らかになっている。

最後に、やや余談ながら、授業を受けるときにノートを取ることはインプットだろうか? アウトプットだろうか?

こう考えると、果たして学校の先生が書いた板書をちくちくノートに写していく行為は何なんだろうと思えてくる。書くだけでは何の意味もない。あれはインプットなのか? アウトプットなのか? よく「手を動かして覚える」というが、記憶の世界では「書いて覚える」のは効率が悪いことが既に明らかである。わたしは数学の証明を順に書くようなタイプのメモを除けば、黒板のメモなんてスマホで撮影すれば良いと思うし、そもそも板書を書く時間があれば、暗記の時間や解説の時間、議論の時間に当てた方がよほど効率的だと思う。(あ、小学校低学年は別ね。あの年代はまだ字を書くこと自体が慣れていないから、文字を書けるようになる必要がある。)