ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

わたしは本書が爆発的に売れたし話題になった本であることを知っていたが、内容については全く知らなかった。タイトルと書籍紹介を斜め読みだけして、勝手に、ませたガキがませたことを言う、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』の劣化版のようなライトなジュヴナイル小説だと早合点し、情報を完全に遠ざけてしまったからである。

でもAmazonの紹介文とかこれだからね。

人種も貧富の差もごちゃまぜの元底辺中学校に通い始めたぼく。人種差別丸出しの移民の子、アフリカからきたばかりの少女やジェンダーに悩むサッカー小僧……。まるで世界の縮図のようなこの学校では、いろいろあって当たり前、でも、みんなぼくの大切な友だちなんだ――。優等生のぼくとパンクな母ちゃんは、ともに考え、ともに悩み、毎日を乗り越えていく。最後はホロリと涙のこぼれる感動のリアルストーリー。

中学生にもなって「ぼく」が「パンクな母ちゃん」と「毎日を乗り越えていく」とかキモすぎるしダサすぎるし、感動のリアルストーリーとか言われてもって感じで、斜め読みしたら絶対そう誤解するでしょう。

こういうところがメディアの邪悪性が顕著に表れているというか、本質的に信用できないというか。

そもそも本書はノンフィクション(解説にもあるが、狭義にはエッセイ)である。書き手は母親で、あくまで母親から見た息子の姿が描かれているだけであり、息子が一人称で書いた文章などではない。

本書を読んで理解したのは、著者は保育士 兼 ライターである。高校卒業後に渡英して保育士の資格を取得し、失業者や低所得者が子供を預けられる託児所(著者曰く底辺託児所)で働いていたそうだ。そして細かな時系列は不明ながらダンプを運転したりしているワーキングクラスのアイルランド人と結婚し、息子を産み、ブライトンという街で、近所の学校が常にランキングの底辺あたりを彷徨っている「荒れている地域」の元公営住宅地に居を構え、暮らしている。そして息子は(近所の底辺小学校ではなく)市の小学校ランキング1位を突っ走る公立カトリック校に通っていた。背景として、母親も父親も(不熱心な信者ではあるものの)一応カトリックの洗礼を受けているのに加え、父親の親族は叔母が修道女・従弟が神父といった敬虔なカトリックであるため、親族の無言の要望に押されるまま何となくカトリック校に入学させたのだそうだ。

さて、ここからが本書のプロローグだが、通常、こうした市のランキング1位のカトリック校を卒業した生徒たちは、ほぼ100%、市の中学ランキング1位のカトリックの中学校に入学するのだが、息子は近所の「元底辺中学校」に通うことを決めるのである。優等生的だが若干元気のないエリートカトリック校と、校長や教員の手腕でこの数年メキメキとランキングを上げ、今やランクの真ん中あたりまで浮上してきた活気のある「元底辺中学校」を比較して、著者である母親や当の息子が後者に魅力を感じてしまったからである。

元底辺中学校は、コンサバで教育水準の高い白人ばかりではなく、ワーキングクラス、生活保護対象になるような家庭環境に問題を抱えた家庭、ハンガリーからの移民の息子、中国人、そして元カトリック校出身のアイリッシュと日本人のハーフなどなど、多様なバックグラウンドの子供たちが通っている。だから息子も、良くも悪くも多様性のある環境で、これまでにないことを経験している――とまあ、そういう話のエッセイである。ともに乗り越えていくみたいな言い方は若干大袈裟というか、実態と合っていない気がする。そりゃあ家族だから共に生きていると言えばそうなのだが、あくまで子供は子供の、母親は母親のコミュニティに属しており、家族として日々の色々なことを会話したり相談したりしているだけである。別に子供の問題に両親が割り込んでいるわけではない。

でも面白いね、この本は。「多様性」というキーワードを軸に色々なことを考えさせられる。評判が高いのも頷ける。

ただ一点だけ気になった表現を指摘しておこうかな。

「でも、多様性っていいことなんでしょ? 学校でそう教わったけど?」
「うん」
「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしてると、無知になるから」
 とわたしが答えると、「また無知の問題か」と息子が言った。以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人々は無知なのだとわたしが言ったからだ。
「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

こういうやり取りがあったのだが、ここだけは凄く違和感を覚えた。理由はシンプルで、多様性から生じた大変さや面倒臭さが、誰かの「無知を減らす」ためにお勉強の道具として消費されるなんて、当の大変な思いや面倒な思いをしている人たちにとっては溜まったもんじゃないよな、という話である。

わたしならどう答えるかな? 親でも教育者でも宗教者でもないから、この手の話に対応するのは正直苦手だ。倫理的な人間でもないしね。ただ、わたしは、多様性というのは良いとか悪いとかではなく「前提」なのではないかと思う。