加藤千恵+タクマクニヒロ『写真短歌部 放課後』

最近、短歌って面白いなーと思ってちょいちょい本を読んだりネットで見聞きしたりしている。なぜ面白いと思うようになったのかは後述するが、そのきっかけは明白で、河合克敏『とめはねっ! 鈴里高校書道部』という漫画である。ごくフツーの高校生から大学の書道学科を目指す高校生まで、様々なバックグラウンドを持つ若者たちが高校書道部で書道に取り組む青春漫画なのだが、主人公が「書の甲子園」に出品するに当たって(詳細は割愛するが)自らの気持ちを最もよく表してくれるプロの「ことば」を探そうと奮闘する。その中で、主人公は以下の短歌を発見する。

迷いながら
ぶつかりながら
ゆれながら
過ごした日々を
いとしく思う

主人公は、地味だけど確かな色や匂いを持った「青春」としか言いようのない自分の書道部での日々、そして書道を一緒に楽しんできた仲間への思いをこの短歌に託し、それを書としてしたため、仲間に贈るのである。この書は実際の書道家に書いてもらったもので、「書」という体裁を取りながらあえて従来の書とは異なり「横書き」という挑戦的な字の配置をした結果、三回繰り返される「ながら」という文字の書きぶりの違いを目でも楽しむ仕掛けになっているなど「書って凄いんだな、面白いんだな」と感服させられることが非常に多いシーンである。ここではただの文字面の引用なのでその面白さが伝わらないのが残念だが、興味のある方はぜひ、河合克敏『とめはねっ! 鈴里高校書道部』を手に取ってもらいたい。わたしは毎回このシーンで泣いてしまう。

さて、今回は書道がモチーフではないため話を戻すと、わたしはこの漫画を何十回と読んでいるのだが、この年末年始にまた飽きもせず数十回目の再読をした。そして読むたびに湧き上がる思いがある。「言葉って凄いんだな、短歌って凄いんだな」という思いだ。

他人の気持ちは他人にはわからないのだから、自分の気持ちは自分で考えて自分の言葉で書くことが一番である――というのが一般的な、そして通俗的なロジックである。わたしはそれを否定はしない。しかし言葉を自在に操る、すなわち何かを言葉で自在に表現するということは、小説家や歌人・俳人といった言葉のプロでもそう簡単なものではない。事実としては間違っていないのだがニュアンスが表現し切れていないと思うことは、わたしだってよくある。もっと丁寧に、もっと正確に、あるいはもっと簡潔に表現できるはずなのに……と思うことも。普段の生活でもそうだし、仕事上でパワポスライドにつけるリード文だってそうだ。このブログもそうなのだろう。

そのような中、この漫画の主人公は、既存の作品に自分の感情を表現したものがないかを探すという選択をするのである。

この漫画のように、「自分の今の気持ちにぴったり寄り添った短歌を探そう」と本屋や図書館に通った結果それを見つけられるということは、おそらく現実にはほとんどありえないと思う。しかし、多くの作品に触れた結果・・として(つまりこの漫画の主人公とは逆のプロセスを取ることで)、自分の気持ちや考えを自分以上によく表現したものに出会うことは時折あるだろうと思った。事実、過去わたしは何度かそのような経験がある。

そんなこんなで、冒頭のようにちょいちょい歌集を手に取ったりしているのだが、やっと冒頭に戻ったところで本書の説明に入ると、本書は、前述の『とめはねっ! 鈴里高校書道部』に登場した短歌を詠んだ方の歌集である。本書の最も際立った特徴は「写真短歌」という挑戦的な試みである。読んで字の如く、写真をつけて短歌を読むという試みなのだが、短歌だけを連ねるよりも短歌のイメージが湧きやすいし、写真が「お題」っぽく機能して「自分ならどう表現するかな」と考える楽しみもある。これはゼッタイ面白い試みなのだが、どうもあまり広がっていない試みのようだ。しかし短歌のハードルも下がるし、面白いと思う。