斎藤環『思春期ポストモダン』

思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)

思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)

著者の考えた「病因論的ドライブ」というフレームを用いて、思春期の若者を取り巻く「ネット」「自傷行為」「解離」「ひきこもり」「家庭内暴力」「不登校」といった問題について考えている。

 社会が悪い、とは一概に言えない。しかし、家族や個人が悪い、とも言い切れない。強いて言えば、問題は常に「関係」の中にある。個人と家族、個人と社会、あるいは家族と社会、それぞれの関係の中に。繰り返すが、これはいままで言われてきた「環境因子」とは微妙に異なる。
 なぜなら僕が言いたいのは、個人、家族、社会のそれぞれに、はっきりと指摘できるような病理がなかったとしても、それぞれの「関係」が病理性をはらんでしまうことがある、ということだからだ。
 ほぼ「健常」であるはずの「個人」に、病理的な言動を強いるもの。単純に環境や社会、あるいは個人の状況に還元できないような、この関係的要因を、僕はかつて「病因論的ドライブ」と命名した。
 そう、ある種の「病気」は、「病気なき個人」と「病理なき社会」との<間>で起きる。

病因論的ドライブという名称はイマイチわかりづらいが、この関係性にこだわる発想は個人的に好きである。俺が大学で専攻した社会学から学んだ数少ないことは、この関係性へのこだわりではないかと思っているくらいだ。著者は社会学ではなく、臨床の現場や精神病理学からこの立場を持つに至ったようだが、こういう考え方は重要である。特定の要素に問題の原因を押し付けられるようなシンプルな時代は、幸か不幸か過ぎ去ったのである。