竹田ダニエル『#Z世代的価値観』

アメリカに住むバイリンガルの理系研究者が世代論について語っている本。ところどころ「アメリカを持ち上げて日本を下げる」という仕草が出てくるのだが、わたしから見ればアメリカのほうが日本よりはるかに歪んでおり、それは世代論などではなく世代共通の話である。

ただし著者は、その世代の人々の考え方が全て世代論でまとめられるわけではないという至極真っ当な補足をしているし、世代論はその世代の人々が共通して体験した大きな社会的出来事や事件によって否応なく形成されるもので、その成立過程に関心があるという問題意識も、世代論が嫌いなわたしにすら納得できるものだ。例えば1978年生まれのわたしが現在「何世代」と呼ばれているのかすら正直よくわからないし興味もないが、わたしの世代が概ねどのような空気と対峙し、その結果どのような世代となったのかは、その手の本を読まずとも何となく想像がつくし説明ができる。

まず幸せな無邪気なばかりの小学校生活も終わり思春期に入ろうとする頃に日本経済のバブルが弾ける。1991年である。続いて高校1年生だったかな、1995年の1月17日の早朝に阪神大震災、3月20日には地下鉄サリン事件が起こる。1997年には酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件、さらに山一證券経営破綻。補足すると破綻そのもののインパクトは若造の自分には理解できなかったが、社長の会見が衝撃的だった。そしてノストラダムス云々や2000年問題に代表されるミレニアム(千年紀)近辺のぞわぞわ・ふわふわした数年間を乗り越え、いざ大学を卒業してそろそろ社会に出るかという頃に9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が発生する。我々の世代は日本経済全体が不況で新卒採用をマクロレベルで絞った就職氷河期と呼ばれる時期の終盤に位置する――思春期の突入から社会人に入るぐらいまでに、わたしたち1978年生まれが直面してきた社会的出来事や事件は概ねこのようなものだ。つまり、日本は経済も社会も急速に悪化かつ不可逆に悪化し、予測も準備もしていない大きな災害や悪意は忘れた頃に必ず襲ってくるのだと何度も突きつけられ、千年紀末という根拠薄弱な不安に晒され、それでも「これからは21世紀という新たな時代の幕開けなのだ!」と前を向きかけた瞬間に、東西だの南北だの宗教だのといった、すなわち貧困格差や人種問題や国家間対立といった旧世代の問題は何も解決していないと冷や水を浴びせかけられた、そんな世代と言って良いだろう。

いや、最後の9.11だけを取り上げても、冷や水と呼ぶにはあまりに衝撃的だったかもしれない。ワールドトレードセンターに乗客を載せた飛行機が自爆テロとしてぶつかる瞬間。その結果発生したビル火災で熱と煙とガスに耐え兼ねた人々が何十人・何百人も高層ビルから飛び降りる瞬間。今の若者がこの映像を数分で観て「まるで映画だ!」と騒ぎ立てるのを目の当たりにすると、気持ちはわかる反面、物凄くイライラする。あれは数分程度の動画で観てわかるようなものではない。数時間・数十時間・数日間・何十日間とテレビにかじりつかざるを得ないものだった。とてつもない恐怖を感じたし、世界の憎悪も感じたし、こんな社会に出ていくのかと思ったし、世界の理が大きく姿を変えた瞬間だとすらわたしは本気で思った。そう、『ベルセルク』の「触」そのものである。それぐらいの衝撃と恐怖があった。一方で何かゾクゾク・ワクワクしてしまった自分もいて……何も知らないその時の自分を今のわたしは強く恥じている。

……長くなった。しかし振り返ってみて少しわかった気がする。わたしは数十年間、一貫して世代論が嫌いだと言い続けているが、その理由は2つだと思っていた。ひとつは、わたし自身を「世代論」という矮小な箱に入れられたくないという思い、もうひとつは世代論そのものが陳腐だという思いである。その意味では、前者は今でも感じるところである。数十年前に感じたこの衝撃は今でも変わるところはないが、それだけでわたしを規定してほしくない。一方、後者についてはどうだろう? 世代論そのものは陳腐ではなく、「その世代の人々の考え方が全て世代論でまとめられるわけではない」という注釈さえ入れれば、十分な効力を発揮する分析ツールなのかもしれない。

なお竹田ダニエルの考え方は、個人的には本書のエッセイそのものよりも、本書の後半に収録されている対談の方がよりわかりやすいので、竹田ダニエルや世代論については、後半の対談から読んでみてほしいとすら思う。