『劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 特装版』

泣く子も黙る超有名アニメーションだが、一応説明すると、エヴァとは、地球規模の大災害「セカンドインパクト」を経た2015年の地球を舞台に、14歳の少年少女たちがエヴァと呼ばれる不可解な人型兵器に搭乗して「使徒」と呼ばれる正体不明の敵と戦うロボットアニメ。

旧劇

ファンの間で旧劇と呼ばれている本作(劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に)は、意味不明だったテレビ版の最終回を作り直すという企画で数度に渡って作られた映画をDVDにまとめた作品だ。ざっくり言うと1名目がテレビ版の内容の総集編『DEATH(TRUE)2』で、2枚目が真のラストを描く『AIR/まごころを、君に』である。
1枚目の『DEATH(TRUE)2』については、総集編なので、正直に言って退屈だった。というか、途中からはコマ送りやチャプター送りで飛ばしたところも多い。ひとつ気になった点としては、第六話のラストでシンジに「笑えばいいと思うよ」と言われて綾波レイが微笑むシーン、あれは描き直されていたように思った。相当昔の記憶なので正直あまり自信はないけれど、テレビ版でのレイの微笑みはもっとぎこちなかったような気がするが、気のせいだろうか。何だかとても自然な笑顔になっていた。まあ第六話に関しては作画自体けっこう乱れていたし、もし描き直しがあっても不思議ではないが、あのぎこちない感じの微笑みもまた味があって良かったんだけどな。
2枚目の『AIR/まごころを、君に』は、一言で書くと「間延びしたクライマックス」である。大層な音楽と大層な映像が際限なく続き、結局どこがクライマックスなのかサッパリわからない。というか、しょっぱなからシンジ君がアスカの裸を見て○○(一応ネタバレ防止の伏せ字)をするのも意味不明だし、ラストのセリフも意味不明。綾波レイの扱いは本当にあれで良かったのか。
大量のオタクがエヴァを見ている映像そのものを映画の中に取り込んで映すという、ある意味とても残酷なシーンがあったので、おそらく、エヴァンゲリオンを最も精力的に消費したと思われるオタク層に対して、作品を通してメタ的なアンチテーゼを展開したのだろう。しかしメタ批判と物語の放棄は全く別の次元の話だ。そのあたりを誤魔化したり放棄したりして「オタクは自立せよ」みたいなメッセージを送られても、オタク層の多くは、そんなメッセージを受け取りきれなかったのではないかと推測する。
俺の感想としては、テレビ版も映画版(旧劇)もラストは大いに不満だ。哲学めいたことや宗教的なテーゼを物語の中に散りばめるのも、それを解きほぐして楽しむのも、物語を放棄してメタ的なメッセージを受け取り手に送るのも、少年少女の自我が崩壊するようなストーリーに「物語の高尚感」を見出すのも、まあアリと言えばアリだろう。けれど、逃げてばかりでは問題が解決しないことや世界が綺麗事だけで成り立っているわけではないことを知った少年少女の「成長」に対するドキドキ感や切なさも、『エヴァ』の欠かせない魅力のひとつだろうと俺は思う。作品全体を鑑みても、過酷な状況の連続に魂を深く傷つけられながらも、最後は少年少女らしい健やかさが大人の世界をひっくり返すという結末の可能性があったはずなのだ。そうでなければ、わざわざ14歳が殺戮兵器に乗る意味なんて無いような気がする……と思うのは俺だけだろうか。

新劇1.01(ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序)

庵野秀明は以前どこかで「エヴァンゲリオンは哲学的なのではなくて衒学的だった」と自虐的に語っていた。その自虐が的を射ているかどうかは別にしても、確かにエヴァはオタク層や評論家によって衒学的に受容された。オタク層や評論家が愛着を持てば持つほど、物語は「分析」の名の基に細かく切り刻まれたのである。この衒学の隘路から抜け出すべく物語を再生(REBUILD)させようとするのが、この新劇場版と考えて良いだろう。序と破はそれこそ十回以上は観たが、謎ばかりを振りまき、伏線回収や決着を放棄した旧劇とは違う結末になっていくのだろうと思う。
ただし一点、注意を。本作のバージョンは1.01である。今は1.11のバージョンが出ているが、1.11は、ちょっと演出を派手にしましたとか未公開シーンを追加しましたとかではなく、細かい演出設定やストーリーが変わっている。そして破は1.11をベースにした続編と考えて良い。
1.01と1.11の違いを洗い出したいというコアなファンを除けば、今さら1.01を入手する価値はないと思う。まあ今となってはファングッズかなー。