すべての男は消耗品である。VOL.11: 2009年7月?2010年10月 回復への道
- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 村上龍電子本製作所/G2010
- 発売日: 2014/06/16
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わたしは日本のことが好きだと思う。生まれ育った国だという愛着もあるし、豊かな四季・食のレベルの高さ・インフラ面・治安……挙げればキリがない。
しかし複雑な思いがある。
一言で書くと、日本という国が沈んでも、そこで一緒になって自分が沈むのはまっぴらだという思いである。
無責任? 確かにそうかもしれない。しかし繰り返すが、わたしは基本的には日本が好きである。そしてわたしは勤労の義務と納税の義務を果たしているし、社会的ルールも基本的には逸脱しておらず、それどころか満員電車での振る舞い、赤信号での振る舞い等々を見ても、社会秩序の維持に一役買っているはずだ。しかしわたしは国や共同体に縛られては終わりだと思う。遊牧民のように、気に入らない場所から気に入る場所へ移動を続けることは、人間として何ら不自然なことではない。事実、世界中の人間がそうしている。日本という国に守る価値がなくなり、住み続けたいという思いを失えば、当然わたしは別の国へ移住するだろう。アイスランド、フィンランド、ハワイ、南国の楽園……住んでみたい国はいくらでもある。
さて、わたしはグローバルマインドを持った人間では全然なかったが、上記のような考えもあるため、最近はそれなりに英語を勉強している。仕事で使うというのもそうだが、わたし自身が世界中どこでもsurviveできることが必要だと痛感しているからである。
日本は、政治家の力量は世界でもかなり低いような気がする。日本人全体の意思決定力も低く、また優先順位をつける力もキャパシティも低いので、森友問題などで1年以上も国会を空転させて誰も何も言わない。安倍が悪い? 放課後にやれよと思う。日本は国際社会で現在大きな位置を占め、今後に対しても大きな可能性を秘めている一方で、結局はじわじわと衰退していくのだとしか思えない。日本が今以上に国際社会において政治・経済・文化でプレゼンスを発揮する未来はどうしても想像できないのである。
村上龍も同じことを思っているのだろう。
自らの欲望を肯定し、それが現実になることでわくわくしている人をほとんど見なくなった。たとえばホテルのバーにはそういった人はあまりいない。
わくわくすることが減っているのだろうか。心がわくわくするような、子どものころの遠足の前夜のような興奮の前提が失われつつあるのかもしれない。何かが楽しみでわくわくするために必要なのは、欲望だ。日本社会から欲望そのものが失われつつあるような気がする。(略)
欲望はどうして消えつつあるのだろうか。経済が停滞しているからだろうか。
社会が成熟して、欠乏や飢えがなくなっているからだろうか。だが、あらゆるものが欠乏しているはずのホームレスに欲望を感じることはない。欲望でぎらぎらしているホームレスなど想像できない。ホームレスから感じるのはあきらめだ。
(略)
どういう理由なのかはわからないが、社会の全域で欲望が否定され、枯渇してしまっているような印象を受ける。復活するとも思えない。社会と個人の欲望が枯渇していく、それはゆっくりと衰退する国家の特徴なのかも知れない。
全く同感だ。
採用をしていても明らかなのだが、最近は「売り手市場」である。しかし誤解してはならないのは、これは国際的に日本の競争力が向上してビジネスが好調だから売り手市場なのではなく、単に日本の求職者が日本の労働市場において売り手市場だというだけだ。当たり前だ、団塊の世代が軒並み退職しているのだから。野党が言うほど不景気でもないが、安心できるような好景気でもない。単に能力と経験のある人材が不足しているだけである。しかしその状況ももうすぐ終わるだろう。これも好景気だの不景気だのとは関係がない。RPAやAIがどんどん実用レベルに到達しているので、無能な人材や半端な人材は要らなくなる。これはルーティーン業務をやっている人の仕事はなくなるので、企画・創造的な仕事をできるようにならなければならない……といった紋切り型とは少し違う。これは今後、機会があれば改めて整理したい。