インキュベ日記

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落合陽一『超AI時代の生存戦略 シンギュラリティ(2040年代)に備える34のリスト』

超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト

超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト

まず最初に言っておきたいのだが、34だの50だの100だのと大見得を切っておいて、最初の幾つかだけ読み応えがあるんだけど、途中は2ページや3ページでお茶を濁す……みたいなアプローチは、不誠実で本当に好きになれない。本書もそうであるとはっきり書いておく。

それでも個人的に思った箇所は幾つかあるので、備忘も兼ねて紹介しておきたい。

「ワークライフバランス」と「ワークアズライフ」

わたしは元々、というのは10年前とかの頃だが、ワークライフバランスという考え方が好きになれなかった。人生には何度か「死ぬ気で」頑張らなければならない、特にインプットをしなければならない時期というものがある。それが仕事であろうが、あるいは受験勉強・就職活動・スポーツ・研究・趣味のいずれであろうが、潤沢なインプットがないのにアウトプットはできまい。当たり前のことである。そしてその頑張りを忌避するのは勝手だが、忌避して成功できないからと言って「世の中がブラックだ」「ブラックに働かないと成功できない」と騒ぎ立てるのは違うのではないか。一言で書くならそういうことだ。その考えは今も変わらない。*1

さて、その一方で、働くと確実に「消耗」している自分がいるのも事実なのである。だからわたしは、20代半ばから30代半ばぐらいまでの猛烈に働く時期を経て、わたしは何があっても徹夜はしないようになった。それでも朝7時から早くて夕方5時、遅くて22時以降まで働くので普通の人よりは働いているかもしれないが、少なくとも馬車馬のように働くことはせず、むしろ率先して帰ろうとしている。それは体力コントロールの観点と、マネージャークラスの人間が意味もなく遅くいるのは若手にとって良くない模範であるという観点からなのだが、こうした小手先の対策を見てもわかるとおり、今もわたしは「ワークライフバランス」という考え方に縛られているなとは思っていた。

そんな中で飛び込んできたのが、本書の「ワークアズライフ」である。直訳すると人生としての仕事であろうか。実は、この手の「ワークライフバランスはもう古い!」という論調はこれまでにも何度か出ては消えている。そしてわたしはこの手の「ワークライフバランスはもう古い!」の論調も大抵好きにはなれなかった。

まず、好きなことを仕事にすれば良いのではないかという論調。一口に「好きなことを仕事にする」と言っても、第一にいわゆる趣味嗜好を趣味できる人はごく少数である。第二に、好きなことを仕事にすると幸せで消耗しないというのは嘘だということだ。プロスポーツ選手を見ればそれは明らかで、彼らは幸せのためにプロとして働いているわけではなく、自己実現という名のモチベーションやアスピレーションのために多大な苦労をして働いているのである。かのイチローだって「野球は好きだ」という発言の一方、「野球は仕事だ」という発言も何度もしているのである。そんな簡単なものではない。

次に、仕事をとことん楽しめば良いのではないか、遊ぶように仕事をすれば良いのではないか、仕事と遊びの境目をなくしてしまえば良いのではないか、という論調もあるが、これもわたしには合わない。提唱者はこれをクリエイティブなつもりで言っているのだが、はっきり言ってこれこそブラックの論調と何も変わらない。わたしはどちらかと言えば仕事が好きな人間に属するだろうが、別にワーカホリックを気取る気は毛頭ない。それにわたしにとって同僚は友達でも家族でもない。信頼できる人間・好きな人間であっても、休日に喜んで会いたい同僚など数人である。わたしはサークル活動のようなノリを会社でやりたいとは全く思わないし、モバイルワークを進化させた結果24時間仕事のことを考える事態もノーサンキューだし、職場で強制的にリフレッシュを施されて(矯正リフレッシュと言っても良いだろう)24時間在社するような生活も求めてはいないのだ。

さらには、もう仕事には何も期待しませんし何も生み出しませんという「諦観派」もいる。「ワークライフバランス」を「ライフワークバランス」と書き換えて言葉遊びに興じているうちは何の被害もないのだが、仕事は人生の一要素に過ぎないのですと当たり前のことをわざわざ口にし、いわば諦めの姿勢を鮮明にし始めると危険である。彼ら「過激な諦観派」は、1日8時間、息を潜め、何の改善も工夫も提案もせず、ただ言われたことをやる。残業など一切しないと宣言し、そこで会社や同僚と軋轢が生まれても知らないよというスタンスである。それで仕事をきちんとこなせるなら良いんだが、一般の社会人と彼らでは「仕事」の定義がそもそも違っている。はっきり言うが、個別タスクリストをこなすだけの人種など単なる機械であり、低付加価値人材に過ぎないのである。欧米のジョブディスクリプションであってもまともな正社員は「個別タスクリスト」などで契約はせず、ジョブ・サイズやR&Rで契約をすることも知らない(これは常識なのだが、descriptionというワードから勝手に米国では個別タスクリストを添付して契約して他のことはしなくて良いんだ羨ましいと勘違いしている人がいる)。すなわち(欧米企業を含む)多くの社会人にとって仕事というのは工夫して生産性を上げることが前提なのに、そこが理解できず「わたしは与えられた仕事を(誰にも理解できない)マクロで効率化したので残りの時間はスマホで遊びます」などと平気で言っている人を(さすがにわたしの会社にはいないのだがネットで見かけると)思わず笑ってしまう。そしてそういう人たちは、逆に仕事が終わらなくても「上司の仕事の振り方がおかしい」と全てを他責にしてしまう。この手の人達はわたしとは人種が違うので触れ合う気もわかり合う気も全然ないのだが、一点だけ、仮につまらないだけの時間でも、そこには1日8時間、昼食休憩と往復の交通時間を含めると10時間から12時間を費やしているのだ。人生の半分を「ただつまらないだけの受け身の時間」にすることがわたしには耐えられない。

改めて「ワークアズライフ」

閑話休題。やっと「ワークアズライフ」の話題に戻るが、落合陽一の提唱するワークアズライフは、上に挙げたそのどれとも違う。簡単に書くと、仕事とそれ以外で分けて、そのバランスを云々する方法論は既に意味を為さなくなっており、差別化された人生価値を仕事と仕事以外の両方で生み出し続ける方法を見つけられた者が生き残る時代になる、いるという指摘である。と言っても、前述のように、プライベートを余暇として、24時間を会社に組み込むような一元論的な社畜思想とも異なる。落合陽一は、人生を「ワークとライフ」の対比で捉えるのではなく、「報酬とストレス」の対比で捉えることを提唱している。

具体的に書くとこういうことだ。まず、仕事の中にもストレスのかかるものとかからないものがあり、面白くてストレスのかからない仕事を増やすと同時に、ストレスのかかる仕事は必要性を吟味するとともに、仮に必要なストレスであっても、時間やストレスの総量を意識的にコントロールすることが重要だ。例えば、落合陽一のような研究者にとって、研究は楽しいばかりではなくストレスのかかる苦しいものでもある、ということだ。研究は、成果として残さなければ誰にも認められない。つまり今やっている研究過程における苦しみが、その後の名声や金銭リターンや「これがわかって嬉しい!」という個人的快楽にきちんと繋がっていなければならない。これを理解すると、仕事以外の私生活においても、ストレスがかかるものとかからないものを見極め、その対比で捉えることが重要であることにも気づくだろう。時間を忘れて没頭できる趣味があるか、家族との人間関係は円滑・円満か、居心地の良い住環境か……などなど。私生活がストレスフルなら、逆説的に、働いている方がマシということもある。たまに「飲み歩いて家に帰らない」という人は、典型的な「仕事場よりも自宅の方がストレスフル」なのだろう。

もうひとつ、報酬についても書く。落合陽一は報酬について「ギャンブル的」「コレクター的」「快感的」という3つの軸で整理している。MECE感に欠ける意味不明のフレームワークだが、網羅性よりは、落合陽一なりの価値観を明確にした結果、こうなったのだろう。確かに、自分にとっての報酬を明確にすることは重要である。例えば、わたしは金銭報酬には実のところあまり価値を感じていない。これは何も意識高い系を気取りたいわけでは全然ない。性格「あればあるだけ使う」享楽寄りだというのもあるが、家族がいないために蓄財の必要を感じないのである。落合陽一の言う「ギャンブル的」という要素はちょっとわかる。ただしわたしはあらゆるギャンブルをやらないし、先ほども言ったように金銭報酬にあまり価値を感じないので一攫千金的な話にもそれほど興味がない。そうではなく、「勝ち負けが明確である」ことに惹かれるということだ。だからわたしは(営業ではないのだが)営業活動は好きだし、競合がいる中での提案は燃える。また「コレクター的」という発想もよくわかる。このブログ自体「わたしという人間のあらゆるインプットをデータベース化したい」というコレクター気質によって続いているようなものだ。

上記のように、自分の24時間が、どのようなストレスと報酬の関係になっているかを明らかにして、自分のワークとライフを設計するという考え方は、非常に腑に落ちた。落合陽一の本は大抵「ふーん」で終わっていたのだが、この一点は凄く自分に刺さったので、関心のある方は本書を読んでもらいたい。

*1:わたしはセーフティーネットは当然必要だとしても、結果平等が嫌いだ。チャンスが平等で、頑張った人間が報われる社会であってほしい。頑張れない人もいる? それも含めて「頑張って頑張る」ことが重要なのである。