宇田川元一『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』

全体を通して

本屋で見つけて何となく買ったのだが、読み進めてすぐに衝撃を受けた。

これは従来の組織論とは全く異なるものだ。

そしてわたしの魂を激しく揺さぶるものでもある。

本書が生まれた背景を整理すると、著者は、研究者としてのキャリアを歩む中で、批判的経営研究(critical management studies)と呼ばれる分野に出会う。この領域ではフーコーやハーバーマスなどの現代思想を駆使しながら、いかに組織での日常が社会的に構成され、抑圧されているかを暴く研究が展開されており、その中で「戦略」はまさにそうした中心的な言語的装置だと述べられている研究に出会う。戦略を考える人と、それを実行する人という支配関係を組織の中に作り出すための言語的な権力の発生装置なのである。著者は非常に納得して批判的経営研究を進めることになるが、あるときとても虚しさを覚える。この研究をいくら頑張っても現実は何も変わっていかない、しかし自分は批判の先に現実を変えていきたいという思いがあることに気がついたからだ。そのような問題意識の中で著者は、ガーゲン、ガーゲンの唱える社会構成主義(social constructionism)、社会構成主義に基づくナラティヴ・アプローチと出会う。ひとつひとつの概念や意義は本書に譲るとして、著者はこれらに出会った結果、こう考えるようになる。

 現実は社会的に構成されている、社会の中身は会話である、だから、私たちは何を語るのかによって、現実を本当に少しずつだけれど、変えていくことができるかもしれない。その思いから、ナラティヴ・アプローチを経営の実践の場において、展開できる方法を模索するようになりました。

では、そもそもナラティヴとは何か?

第1章で順を追って説明されているので、やや丁寧に追っていこうと思う。

第1章(組織の厄介な問題は「合理的」に起きている)

著者曰く、問題には、2つの種類がある。

ひとつは「技術的問題(technical problem)」と呼ばれる、既存の方法論で一方的に解決できる問題である。

もうひとつは「適応課題(adaptive challenge)」と呼ばれる、既存の方法論で必ずしも一方的に解決できない複雑で困難な問題である。現在、社会はとても複雑化し、多少のリソースさえ注ぎ込めば既存の方法論で技術的に解決できる問題は減ってきており、多くの問題は適応課題であるが、そうした適応課題に対処するのに必要なのが「対話」である、と著者は説く。ここでの対話とは、単なるコミュニケーション技法を指すのではない。つまり必ずしも喋ることが必要なのではない。もう少し観念的な概念で、一言で書くと「新しい関係性を構築すること」だそうだ。

これについては序盤で書かれていたエピソードが象徴的だ。やや長いので、わたしなりに要約しながら説明しよう。

創業社長が一代で大きく成長を成し遂げたが、社長の代替わりが必要な時期に差し掛かったある同族会社がある。この会社には現在いくつかの組織上の課題があり、そのひとつは、現在の副社長である長男が、今後どのような社長になることができるか、というものだった。著者は定期的にメンタリングを行っていたが、次男と一対一で面談した中で、次第に「兄は経営者にふさわしいかどうか」という内容へ移っていった。次男は長男の働きぶりについて不満に感じるところが多く、このまま社長になるのは受け入れ難かったのである。著者はそこで、次男の語りの中に含まれていない点として、長男として常に足りないところを指摘され続ける「プレッシャー」や、会社を継ぐことを役割づけられていることで感じる「不自由さ」について共有することにした。日々どのように感じているとメンターである著者から見えるか、ということを著者から話をしたのである。その後、次のメンタリングの場で、長男と次男が直接話す場を設定し、話をしてもらった。その中で、次男は「私は今まで兄が社長にふさわしいかどうかと考えていました。けれど、これからは兄が社長になれるためにどうするか、と自分は考えることにします」と発言し、具体的な提案がいくつも出てきた……こんなエピソードである。

次男の心の中で何が起こったのかまではわからない。しかし著者とのメンタリングを通して、次男の何かが劇的に変化したのは、事実だと思う。

こうしたエピソードを踏まえて、著者はこう語る。

 対話とは、権限や立場と関係なく誰にでも、自分の中に相手を見出すこと、相手の中に自分を見出すことで、双方向にお互いを受け入れ合っていくことを意味します。
 少し面倒でナイーブな話に思えるでしょうか。しかしこの問題こそが、私たちが実際に直面している「適応課題」の困難さなのです。

さて、適応課題は更に4つに大別されるそうだ。これもわたしの理解で要約する。

  1. ギャップ型:大切にしている「価値観」と実際の「行動」にギャップが生じるケース
    • 例えば、女性の社会進出が必要であることを反対する「価値観」の人は少ないが、足元の労働モデルは男性中心の職場が形成され、この仕組みが短期的かつ狭い意味では「合理的」に機能している。男ならではのモーレツな働きぶりで会社を成り立たせている場合などは、これを前提とした「行動」を変えるのは難しい。つまり女性参画という長期的なゴールのために会社の利益という短期的なゴールを歪める必要があるというギャップが出てくる。
  2. 対立型:互いの「コミットメント」が対立するケース
    • 例えば、営業部門と法務部門の対立。
  3. 抑圧型:「言いにくいことを言わない」ケース
    • 例えば、既存事業に先行きがないのに、撤退を言い出しにくいために、見通しが立たない事業にあれこれとテコ入れを続けて現場が疲弊してしまう。
  4. 回避型:痛みや恐れを伴う本質的な問題を回避するために、逃げたり別の行動にすり替えたりするケース
    • 例えば、職場でメンタル疾患を抱える人が出てきたときに、ストレス耐性のトレーニングを施すケースが典型的。

いずれも既存の技法や個人の技量だけで解決できない問題であり、もっと言えば、人と人、組織と組織の「関係性」の中で生じている問題だと言えそうである。

著者はさらに、適応課題を解消するためには、互いのナラティヴに目を向けることが重要だと説く。

ナラティヴとは、物事に対する個々人の解釈の枠組み一般常識のようなものを指す。わたしなりの理解で書けば、議論の前提となる価値観や考え方、というような感じだろうか。と言っても個人的な考えや起承転結ストーリーのようなものではない。仕事上の立場や役割に対して、世の中で一般的に求められている職業規範や、その組織特有の文化の中で作られた解釈の枠組みがあるということだ。すなわち上司には上司の、部下には部下のナラティヴがある。また医者には医者の、患者には患者のナラティヴがある。リストラという言葉も経営陣と現場では意味合いが異なるし、実は日本とアメリカでも意味合いが異なる。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ると、相手が間違っているように見えることがある。しかし相手のナラティヴからすれば、こちら側が間違って見えている、ということもあり得る。重要なのは、正論をぶつけ合ってどちらが正しいかを決めることではなく、お互いのナラティヴに溝があることを見つけて「溝に橋を架けていくこと」で、この行為を対話と呼ぶ。

第1章まとめ

長くなった。第1章はせいぜい本書の冒頭15%程度に過ぎないので、さすがにこのペースで本書の感想を書くわけにはいくまい。ここからは解像度を下げて要約したい。まず、ここまでつらつらと書いてきた第1章のまとめ。

  • 対話とは、一方的な技術だけでは歯が立たない適応課題を解消していくための方法であり、新しい関係性を築くことである。
  • 対話に取り組むことによってこそ、互いのナラティヴの溝に向き合いながら、お手上げに思えるような厄介な状況を乗り越えることができる。

第2章(ナラティヴの溝を渡るための4つのプロセス)

第2章では、原則的な対話の(ナラティヴの溝に橋を架ける)プロセスが整理されている。

  1. 準備「溝に気づく」
    • 相手と自分のナラティヴに溝(適応課題)があることに気づく
  2. 観察「溝の向こうを眺める」
    • 相手の言動や状況を見聞きし、溝の位置や相手のナラティヴを探る
  3. 解釈「溝を渡り橋を設計する」
    • 溝を飛び越えて、橋が架けられそうな場所や架け方を探る
  4. 介入「溝に橋を架ける」
    • 実際に行動することで、橋(新しい関係性)を築く

やや抽象度の高い記述だが、プロセスごとのポイントも詳述されており、個人的にはかなりの発見がある。

第3章〜第5章

さらにリアルな状況を設定して、実践上のポイントを整理・解説。

第3章(実践1. 総論賛成・各論反対の溝に挑む)

部門間対立の典型例として挙げられている、新規事業を立ち上げてすぐハシゴを外されて数年後に解体される事例や、既存事業部門も協力したいんだけど自分たちの状況を優先してしまう……というケースは、ほんっとうに多くの会社でよく見かける。基本的には準備-観察-解釈-介入のプロセスを回すことに尽きるのだが、今回のようなギャップ型の課題においては、お互いの利害が対立しないよう、何とか双方にとって意味のある成果を設定することが重要だと説く。すなわち、財務的な成果だけでは厳しい場合、財務的な成果以外で、何かしら有効な解決策を提供できるようなスキームにすると、溝に橋を架けられる可能性があるとのこと。

第4章(正論の届かない溝に挑む)

2つの事例が紹介されているが、ポイントとして、まず言いにくいことを言えない「抑圧型」や「回避型」の適応課題においては、自分のナラティヴに即した正論はほとんど役に立たないという指摘が刺さる。これ本当に多くの人が陥っていると思う。そしてそれは、必ずしも状況が悪いだけではなく、翻って自分自身も悪いのである。

 言うなれば、橋を架ける実践とは、こちらだけの正論ではなく、両者にとっての正論を作っていく作業だと言えます。このように書くと、これは「相手と妥協案を作れということか」と考える人もいると思いますが、まったく違います。
 妥協とは、こちらの要求を一部諦めて、相手の要求を受け入れることを意味します。よくあるのが、提案をしたけれど上司に問題点を指摘され、すっかり怖気づいてしまうケースです。
 その結果、非常に守りに入った、当たり障りのない提案をしてしまうということはよく耳にします。これは確かに妥協そのもので、結局何のために新しい取り組みの提案をしたのかよくわかりません。そして、陰で上司たちの陰口を叩いて「うちの会社も大企業病だね」と愚痴をこぼし合ったりすることもあるでしょう。
 つまり、大企業病なのは、実は提案を妥協した側も同じであり、そこに加担していることに気がつく必要があるということです。相手が自分の提案をよいものだと判断できなかったことを相手のせいにしたくなるのはよくわかるのですが、ここで自分のナラティヴを脇に置いて観察できるかどうかが、その人が新しく価値のある仕事ができるかどうかの大きな分かれ目になってきます。
 多くの場合、上司は上司でこちらが気づいていないリスクに気がついたり、その提案を受け入れたことによってどんなメリットがあるのかと、上司なりに考えていたりするはずです。異なるナラティヴの中にいて、見ている点が違うため、異なる判断を下しているのです。そうだとすれば、上司が一体どうしてその判断に至ったのかをよく観察すれば、打開策が見えてくる可能性があるのです。(略)
 立場の弱い側には、ひとつ大きな罠があります。立場が上の人間を悪者にしておきやすい「弱い立場ゆえの正義のナラティヴ」に陥っている、ということです。立場の弱い側は、いくらでも人のせいにして、逃げ道があります。多くの場合、まだ若いですから、うまくいかなくても再起するチャンスがあります。
 しかも、それを正当化する様々な言い分が世の中には転がっています。最近では、動かない中間管理職を「粘土層」と揶揄する記事をいくつも目にしますし、いくらでも非難することはできます。しかし、自分もいつかその立場に立つことを忘れてはなりません。そのときに、部下の話を受け止めて、守れるようになるためには、今から対話をして、橋を架けられるようになっておかなければなりません。なぜならば、先の若手社員の事例は、直属の上司が、本部長に対して橋をかけることができていないから生じているとも言えるからです。

少し長く引用したが、わたしもこの妥協案ではない形で、両者にとっての正論を作るというのがまだあまり上手にできないケースが多い気がする。得てして「上司や現場を説得しきれるか否か」というモードになっている気がする。考えさせられる。あと、特に2つ目と3つ目の太字部分が物凄く刺さるね。両方とも凄絶な指摘なんだが、特に最後の「正義のナラティヴ」なんかは、もう完全にビジネスシーンを超えて、今の日本社会全体に蔓延していると思う。本題ではないので深くは語らないが、Twitterやはてなブックマークで頻繁に見られる政治批判や上級国民批判と呼ばれるものを見れば一目瞭然である。

あー、第4章は他にも引用したい箇所が幾つかあるんだよな。まだ途中なんだけど、もう書いちゃおう、本書は紛れもない極私的名著です。

第5章(実践3. 権力が生み出す溝に挑む)

「現場を経営戦略を実行するための道具扱いしない」という見出しで、ミスターミニットの事例が紹介されている。

 (略)OKRの導入や目標管理制度の導入などは近年よく行われていますが、今ひとつ成果が上がっているようには見えません。
 それどころか、そうした取り組みとは相反するように、仕事は数字を達成するためのものだ、という仕事の無意味課に伴うモチベーションの低下や、低い目標設定をしたがる現場と高い目標設定をしたがる上司のせめぎ合い、離職、メンタル疾患罹患者の増加といった、およそ目指しているものとはまったく違う現実であったりします。
 この問題を真正面から受け止め、組織の溝に橋を架けた事例として、『リーダーの現場力』を書いた迫俊介さんの事例を紹介したいと思います。
 迫さんは(略)「ミスターミニット」に改革を担う1人として派遣されます。しかし、様々な戦略やサービスをいくら本社側で考えても、実際に現場が実行しないという問題に直面します。
 このときに、最初は迫さんは、「現場はわかっていない」と思っていました。(略)
 しかし、現場を見に行ったときに、迫さんは現場の人がなぜ施策を実行しないのか、実は事情があるようだということに気がつきました。(略)
 迫さんが現場を丁寧に観察する中で気がついたのは、現場は現場なりに、自分たちの置かれている状況に適応するために、本社から発せられる新しいサービスメニューなどの施策を実行していないということでした。
 具体的には、業績が悪化する中で、現場はしっかりとした研修設けられず、サービスメニューが増えると、かえってサービスクオリティが落ち、客からのクレームが発生するという問題が起こるため、上からのサービス追加の指示をやり過ごさざるをえなかったのです。(略)
 さらには、現場からそのような問題点を指摘して、エリアマネジャーなどに上げても、本社が聞く耳を持たないため、エリアマネジャーは声を上げることもできず、板挟みの状況に置かれていたこともわかりました。(略)
 つまり、現場が動かないのは、下の声を聞き入れない上の責任でもあったことがわかったわけです。彼の言葉で表現するならば、現場が腐っていたわけでもなければ、経営が怠けていたわけでもなく、「現場と経営を繋ぐ配管が腐っていた」というわけです。これは、対話のプロセスでとらえるならば、ナラティヴの溝に橋が架かっていなかった問題だと言えるでしょう。

で、我々コンサルは得てしてこういう問題を表面的に捉えて「情報連携不足」とか言っちゃうんだよね。情報連携ツールや報告ルールの整備をいくらしても、これは変わらない。ナラティヴの溝に橋が架かっていないことが問題なのだから。

第6章(対話を阻む5つの罠)

第3章〜第5章とは微妙に視点を変えて、今度は、対話に挑んでいるつもりで、対話になっていないケースを整理。

  1. 気づくと迎合になっている
  2. 相手への押しつけになっている
  3. 相手と馴れ合いになる
  4. 他の集団から孤立する
  5. 結果が出ずに徒労感に支配される

刺さりまくりやん?

第7章(ナラティヴの限界の先にあるもの)

第1章〜第6章まではビジネスシーンのあるあるに寄り添ってきたが、第7章はやや俯瞰の視点。そもそもナラティヴ・アプローチが、臨床心理や看護・医療といった領域から始まった研究で、クライアントとセラピスト、患者と医療者といった異なる立場の人間が、対話を通じてより良い実践をするために生み出された思想であり、実践結果の集積である。そこで今一度、何かを緩和ケアなどの事例を素にナラティヴ・アプローチについて考えながら、なぜナラティヴが違うことで見えないものが存在し、どうすればそれを見ることができるのか、ということについて整理している。

最後に、もう一度全体を通して

これは凄い本だ。

極私的には既に年間ベスト確定だし、何度も読み返す本になるだろう。

大・大・大推薦!