角幡唯介『極夜行』

21世紀においては、もはや「冒険」や「探検」という行為は極めて難しいものになっている。

探検イコール高山という感じで、探検家の多くは登山技術を身に着けて登山家としても活動しているが、登山技術、ないし登山行為は体系化・近代化されてしまった。数名、下手をすると十数名で山に挑み、引っ越しかよというレベルで潤沢な物資を運び込んで頂上の少し下でじっくりと準備をして、最後に誰か1人が代表して山頂にアタックする。その成功は当然、頂上にアタックしていないメンバーを含めたチームの全体ものである……ちょっと言い方が冷笑的すぎたかな。誤解されたくないが、わたしは登山という行為に非常に敬意を払っているし、その大変さも素人ながら理解しているつもりだ。

しかし登山技術、ないし登山行為が体系化・近代化されたことは避けようのない事実だ。誰もアタックに成功していない山など殆どないし、そのような山は政治的理由から登れなかったりする(例:チベット政府が立ち入りを禁じて開放されていない等)から、多くは、既に誰かが到達した山にチャレンジする。二番煎じが嫌な人は、違うルートから登ったり、夏ではなく冬に登ったり、チームでなく単独で登ったり、食料などを無補給で登ったり、酸素ボンベを準備せず登ったりと、そんな感じでアクセントを付けて自分なりに納得し、探検に彩りを添えるのだ。

山以外も同様だ。近年は南米やアフリカの奥地の原住民なども、普段は工場生産されたTシャツを着てスニーカーを履き、海外からの観光客やマスメディアが訪れたときだけ民族衣装に着替えて現金収入を得る時代である。そして砂漠地帯に住む人や、ユーラシア大陸の草原のド真ん中に住む遊牧民ですらスマホを所有し、星や月の複雑な軌道を覚えずともGPSでお家に帰れてしまう時代である。そもそも我々だって、グーグルにアクセスすれば立ちどころに僻地・奥地の地形や写真を入手できてしまう。何なら米軍基地だとか、中国の秘密要塞だとか(あるか知らないが)、北朝鮮のミサイル施設だとか、大量破壊兵器を隠している(結局見つからなかったが)アルカイダ施設の方がよほどミステリアスな秘境と言って良い。

つまり探検家がチャレンジすべき未踏・未到の地など地球上にはほとんど残されていないのだ。

その中で21世紀の探検家である著者は「極夜」に着目した。高緯度地帯においては、夏は一日中太陽が昇る白夜、冬は一日中太陽が沈む極夜が訪れる。といっても地平線すれすれに太陽がいる場合もあって真の暗闇は、かなりの高緯度地帯に行かねば見ることは出来ない。そして数ヶ月に渡って太陽の光が全然ない「極夜」は、深海と並ぶ人類未踏・未到の地ではないか、そこを探検し、サバイブすれば、何か見えてくるものがあるのではないか――引用ではなくわたしなりの言葉でまとめてしまったが、つまりはそういうことだ。ごく僅かなイヌイットしか暮らしていない厳しい環境の僻地ではあるものの、別に「探検」と言えるほどの地理的魅力がある場所ではないかもしれない。しかしそこに「暗闇」という補助線を引いて、自分なりに、探検の意義を見出しているのだ。

21世紀の探検は、探検の定義から始まるのかもしれない。

それが人によっては宇宙、あるいは深海になるのかもしれない。アフリカやアマゾンの奥地で、サバイバルすること自体が探検になるかもしれないし、先住民との生活が探検になるかもしれない。著者にとっては、それが極夜になった。

つまり21世紀の探検家は、否応なくテクノロジーや文化人類学、そして哲学と接近しているのだと思う。そう考えると、個人的には何か色々しっくり来た。

著者は何年もかけて準備をして、数ヶ月にも渡って極夜を彷徨い歩く。月光と星光に「明るさ」を感じる世界、マイナス30度・40度の世界。想像もつかないが、著者の文章を夢中で追いかけるうち、こちらにも何か通じるものがある。著者と2人、暗くて狭い極夜下のテントの中で語りかけられているようだ。

『空白の五マイル』を読んだときにも思ったが、この人は凄い。

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