大崎善生『将棋の子』

『聖の青春』を書いた元将棋雑誌編集者による、奨励会に挑み、そして敗れた人々にスポットライトを当てた傑作。

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奨励会とは、プロ棋士養成機関である。東西に分かれてプロ志望者がしのぎを削り、非常に厳しい一部の人間だけがプロ棋士になれる、公正で公平で、そして厳正なトーナメントである。しかし年齢制限がある。一定の年齢に達するまでに奨励会を勝ち抜くことができなければ、もうプロになることはできない。倍率は高く、どうしても勝ち抜けず、敗れ去っていく者が大半だ。

そしてプロになってからも厳しい戦いは続く。

「将棋は厳しくはなく、その本質は優しいものなのである」

本書の終盤で出てくる言葉だが、この言葉をわたしは口が裂けても言えないだろう。なぜなら将棋とはどこまでも厳しいものだと思うからだ。運の要素がなく、引き分けもない。どこまでも1対1の勝負の結果だけが厳然と――奨励会も同じだ。どれだけ頑張っても、駆け抜けられる人間もいれば、プロになれない人間もいる。

著者は本当に、将棋の本質は「優しいもの」であると思っているのだろうか?

優しいものであってほしい、将棋に本気で関わった人が救われてほしい、幸せであってほしい、という祈りのようなものだとわたしは思った。

読みながら涙が止まらなかった。

そして熱いものが体中に流れ込んできた。

仕事を頑張ろう。

趣味を頑張ろう。

人生を頑張ろう。

頑張ることを頑張ろう。

近年はてな界隈で声高に主張される「努力できることもただの恵まれたギフトであり、全ては運に過ぎない」という究極の努力相対主義/運至上主義が、わたしは本当に大嫌いだ。この論調を是とすると、奨励会で涙を流した人たちは、ただ実力がなく、努力する才能もない不運な人々だということになる。イチローも松井秀喜も大谷翔平も中田ヒデも、ビジネスの最前線で働き成功している人たちも、世界を変える研究に没頭している人たちも、そして藤井聡太も、ただガチャに恵まれて環境面や努力を含むあらゆる才能があっただけの幸運な人間になる。

わたしは認めない。

全てを運に収斂させる方が、よほど残酷だ。そして実態と合っていない。

成功した研究者たちが何を言っても、またSNSで他人を批判するだけの人間が何を言っても、努力はその当人の意志と、努力できる工夫の賜物だ。

時代錯誤でも良い。わたしは頑張ることを頑張っていこうと思う。そして奮闘した人間をリスペクトし続けようと思う。